雪解け水



木々の葉は落ちて、陽が日増しに短くなる秋の暮れのことだった。

「嫁ぎ先が決まった」

有無を言わさないその一言での身の置き所は決まった。 嫌も良いもない。 ただ籠に乗せられて国の境を越えたのは、彩りのない寂しい季節だった。

それはの家が、片倉の家に庇護を求めた急ぎの縁談であった。 家格こその家の方が上であったが、伊達家の忠臣として飛ぶ鳥を落とす勢いの片倉家に敵うはずはない。 どんな無礼な仕打ちがあっても逆らうことだけ決してならないときつく言い含められた他は、 祝いの言葉もなくはただ肯くことしかできなかった。

しかしそれも武家に生まれた子女の当然の成り行きで自身さした後悔もないかわりに満足もなかった。 父の言葉通り、夫となる男は不在のまま祝言は執り行われた。

相手の片倉家は、立て込んだ時期で十分な祝言が執り行えないと春の輿入れを希望したらしいが、 一刻も早い庇護を必要としていたの父の強引では嫁ぐこととなったらしい。 それだけ背後が危険だったようだが今となっては確かめようのないことだ。







空気はやがて肌を刺し、太陽は徐々に遠ざかっていった。 片倉の家に嫁いでからはずっと一人だった。 女中たちとはすぐに打ち解け親しくすることが出来たが、夫と顔を合わせることはなかった。 戦場を転戦して、一度として帰還することがなかったからだ。

はずっと一人だった。 疎まれているのかもしれない。 はとうとうちらつき始めた雪を眺めながらため息をついた。

戦場に掛かりきりで戻って来られないのだと女中には何度も聞かせられたが、 無理を押し通した結婚に辟易としているのかもしれない。 まして顔はおろか名も知らない相手。 それが当然のことだとはいえ、は不安に胸が潰れた。

雪がちらつき、積もり、一人寝の寒さが染み入ってもは一人のままだった。 何のために一人この地へやってきたのか、にはもう分からなかった。



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その夜は風も吹かず一際月が冴え返り、雪の降る音さえ聞こえてきそうな夜だった。 は物音で目が覚めた。 まだ室内は暗く朝には遠いようだった。 意識はぼんやりとしていて、夢と現の境は曖昧だった。

遠くではざわついた物音がしていた。 不意に鼻につく慣れない匂い。 その匂いにまどろんでいた意識が急に覚醒を始める。

生理的嫌悪。 明らかに邸内の様子はおかしいが、異常を知らせる女中は一人としてない。

誰かと声を上げようとした瞬間襖が音を立てて開けられ、大きな影が突如布団を剥ぎ取った。 暗がりになれていないの目は、何を捕らえることも出来ない。

反転する世界、手首を握りこむ強すぎる力。 物言わない見知らぬ侵入者には四肢をばたつかせて抵抗するが、それも二度三度と頬を平手で殴られて萎える。

怖いという言葉は喉で絡まりただただ夜に飲み込まれるしかなかった。 強いられる行為の中で、血だと、鼻をつく不快な匂いの正体に思い至っては意識を手放した。







酷い夜から目が覚めてみると部屋には一人だった。 悪い夢だったのかと起き上がってみると、四肢に引きつる痛みが走り夜具に散る赤が現実だと教えた。 すぐに女中が世話に部屋に入って来たが、はされるがままぼんやりとしていた。


「昨夜の方が、小十郎様なのですね」



うわ言だった。 ぼんやりと魂が抜け落ちてしまったは糸が切れていた。

閨へと入ってきた男は血の香りをさせたままだった。 それは戦の興奮そのままで、はどうすればいいのか、ただただ恐ろしくて声も出なかった。 その男はが目を覚ましたときにはどこにもいなかった。

雪がしんしんと積もって白へ白へと世界は変わっていく。 の目からはただはらはらと涙が流れて、寒さに背筋震わせた。 本当に、何のためにここまで一人やって来たのかと指を強く握った。




■□■

淡々とすぎていく日々は着実と春へ春へと早っていくが、の心は雪に覆われて冷たいままだった。 小十郎は、あの一晩を除いてとても優しかった。 律儀に、三日と置かずの寝所を訪れては夜を過ごしていく。

もその行為に慣れ始めたのはつい最近からだ。 最初の経験があまりにも常軌を逸していて、触れられても手足は硬直して嫌な汗が流れ心臓は早鐘を打ち、 ひたすら早く終わることを願っていた。

それでも拒絶の言葉一つ吐けなかったのは父の言葉が深く胸に刺さっていたからだろう。 今ここで片倉家の庇護を失うわけにはいかない。 民に血を流させるわけにはいかない。

ただそれだけを守りに一夜一夜を過ごしてきたのだ。 けれどそんな冷たい交わりでは言葉を交し合うこともなければ、名さえ呼びあうことはなかった。 昼は顔さえ合わせないこともざらであった。

疎まれている。 ははっきりとそう感じていた。 そして恐ろしい。 いくら優しく扱われようと、いくら行為に慣れ始めようとその思いは消えなかった。 それなのに。

どうして傍らのこの人が眠らない夜はあんなにも不安なのだろうか。 どうして傍らで眠っているこの人に抱き寄せられているとこんなにも幸せな気持ちになるのだろう。

あまつさえどうして名など呼んでみたくなるのだ。 どうして名を呼ばれたがれるのだ。 この人の気持ちが知りたいなどと、どうして……。

きっと、温かいからだ。 は泣きながら一人ごちた。 布団を被っていても冷気はを冷やす。

よりも一回りも二回りも大きい温もりは安心感を呼び起こした。 この人にしてみたらこの閨で過ごすことは義務でしかないのだろうけれど。 はこの地に来て初めて手に入れた温もりに縋って眠った。