すっかり冬はなりを潜め、春が間近へとこの屋敷にも迫っていた。
陽射しは柔らかく書物を捲る手もかじかまない。
不意に鼻をくすぐる白梅の甘い匂いはの気持ちを満たしていく。
芽吹き、命の生まれる季節は雪深いこの土地では殊更喜ばしく感じられた。
書を読み耽りながらは落ち着かなさにそわそわもしていた。
もう先刻からずっとの背後に小十郎が立っているのだ。
そのことに気づきながらは右へ左へと流れていく文字を読むことなく頁をめくっていく。
落ち着かないことといったらない。
小十郎は何を思っているのか頻繁に、声をかけるでもなくまして抱くでもなく、ただじっとの姿を見ていることが多々あった。
その度には居た堪れなさを隠して振り向いて見せるのが、さっぱり小十郎の真意は掴めない。
今日も小十郎との駆け引きだ。
一体何を求めてこんな意味の分からない勝負を仕掛けてくるのかに分からなかった。
「何か御用が?」
極力表情を浮かべず、無関心を装って、は小十郎が痺れを切らすだろうぎりぎりでこうして振り向いてみせる。
きっと小十郎はが気づいていることに気づいていて、を試している。
小十郎に気づかれていることに気づいているとしては無視するわけにはいかず結局こうして勝負に乗せられる日々だ。
「今済んだ」
悪びれるでもなく言い放つそれに眉根を寄せながら、
はこれで今日一日はあの獲物を狙う鋭い目に晒されずに済むと安堵して小十郎が去るのを待つが小十郎は一向に動かない。
終わったことにほっとしていたことに気づかれただろうか。
内心の動揺を隠しながら、は目を細めて庭を眺める小十郎の顔にはっと見惚れた。
陽の高い場所で、はっきりとこの方の顔を見るのは初めてだったからだ。
その造作は美しいというよりも端整で、更に生まれ持った面の上に今までどう生きてきたのかがしっかりと刻まれている。
多くのものを守って恥じるこのとのない生き方をしてきたことを窺わせる一点の曇りもない顔をは見つめる。
きっと惹かれる女性も多いに違いない。
居た堪れないと思いながら、は小十郎に倣って庭に目をやった。
毎日庭先に降りて綻びを確かめていた梅は今が盛りだ。
「梅がもう咲いたのか」
小十郎は思いがけずの隣に立ってそう呟いた。
は思わず小十郎を見上げた。
じっとその横顔を見つめて、二心なく梅を愛でている小十郎に声を弾ませた。
「屋敷では一番に蕾が開きました」
図らずも同じ感慨を抱いていたことには嬉しくなった。
肌のことは知っていても、小十郎が何を嗜好するのかすら知らないには花を慈しむ一面を知れたことでも嬉しいことだった。
「片倉の家でも興味があるものはあったんだな」
「小十郎様のわたくしに対するご興味よりは」
言葉こそ素っ気ないが、皮肉の他意は込められていないそれにも率直に答える。
「」
風に遊ばれる花弁に見入っていたは咄嗟に、なんと言われたのか分からなかった。
この名を呼んだのか、この人は。
「はい」
震えを隠しながらはそっと小十郎を窺った。
逆光でその顔は見えない。
緊張が血液に乗っての身体を駆け巡る。
「好いた男はいたのか?」
凪いだ水面に波紋が広がるように、の心にその言葉が小波を立てる。
今なんと言ったこの人は。
頭を強く殴られたように眩暈がした。
悔しいのか悲しいのかすら分からなかった。
「昔のことは忘れました」
鶯が鳴いて、風がやみ、はそっと目を伏せた。
何かをこぼしてしまいそうで前を向いてはいられなかった。
「ただ、今お慕い申し上げている方にそのような無体なことをおっしゃられてはわたくしとて傷つきます」
皮肉なのか本心なのか、は分からないまま口にした。
口にしたからにはからかいにしなければならない。
は唇の端を笑わせた。
「この雌狐め」
どかりと乱暴に腰掛けた小十郎の声は相当に悔しげだった。
それはどこか子供じみていて、智の片倉と誉れ高い夫にはなんとなくおかしくなってきた。
「小十郎様はお優しゅうございますね」
堪えられなくなって、くすくすと笑うと小十郎は更にばつが悪そうにする。
案外と恐ろしい方ではないかもしれない。
なんとなく空気を伝って触れる温もりが愛おしい。
肩も指も触れそうで触れないで、春の陽射しが優しくて、は初めて心が凪いでいるのを感じた。
雪が溶ける音を聞いた。
けれど。
「俺はお前に寝首を掻かれても不思議はないな」
凍りつくとはこのことなのだろうか。
は血が引くのを感じる。
「しかとそうお考えでございますか?」
ああ、これではもうばれてしまう。
それでも止められなかった。
「わたくしが小十郎様のお首を取ると、まことにお考えでございますか?」
春には手が届かない。
どうしたって、この人は遠ざかっていくのだろうか。
「わたくしは、いつまで小十郎様のお側に置いていただけるのですか?」
「お前はずっとそんなことを考えていたのか?」
疼く胸にああ、とため息をつく。
疎まれているのは分かっていた。
まるで噛みあわない、酷い温度差だ。
その癖こうして思い知らされる。
ここまで愚かだったとは、ここまで愚かにされていたとは、はいっそ笑い出したいぐらいだった。
「春には雪が溶けますでしょう?わたくしは雪の頃に参りました。
こうして庭の雪が溶けていくのを眺めていると埒もないことばかり考えてしまうのです」
実家へ返されるだろうとは思った。
対外の緊張関係は、今は大分弛緩している。
冬の間に小十郎が主と共に平定してしまったからだ。
今の家と片倉の家との縁が切れても、の家は困らないだろう。
父に苦い顔をされても耐えればいい。
「俺はあの白梅を雪のようだと思ったのだが」
けれど思いもかけず小十郎はの側にいた。
得てもいなかったものに失ったと思っていたは何も言えずに小十郎の背中を追った。
小十郎は裸足で庭へ降り、今が盛りと花開く梅を一つ摘み取りの髪に挿す。
その手がの髪を撫でる。
「椿も、梔子も、萩も水仙も沈丁花も、みな雪のように白い」
この人は何を言っているのか分かっているのだろうか。
きっと分かっていないにちがいない。
それでもは泣き笑いになってしまう。
刀を握る無骨な手が不器用に差し出す優しさがを照れさす程度に髪を撫でて、あっと思った瞬間に白梅は花弁を散らし、雪のように舞って空へ吸い込まれた。
(2007/7/24)
|
|