初めて訪れた隣国は、想像以上に荒れ果てて疲弊していた。

「驚いたか一の君」
「まさかこれほどまでとは……」

姫は眉をしかめて、宮の廻廊から常世の国を覗いた。緑も、花も、鳥の囀りも、人々の活気も、青い空も、澄んだ川の流れも。初めて訪れた隣国にはそれらは何ひとつとしてなく、ただ砂塵が舞う荒涼とした大地が広がっていた。姫の驚きように、傍らに立つ長身の男は喉を鳴らした。

「歓迎しよう、緑豊かな隣国の姫君。姫の英断で無駄な争いは避けられた」

和平条件は姫と言い放った常世の国の黒雷は、敬愛とも不遜とも取れる表情をしていた。わざわざ窮状の国勢を見せてから中つ国の豊穣に言及するのは、勝者の余裕と皮肉の不均衡だった。

「この身ひとつで和平が取り付けられるなら安いものだ黒雷。恭順しよう。しかしそれは貴殿とこの国が和平条約を守る間のみと心得られよ。変心あれば容赦はせぬ」

姫も服従を見せながら牽制を混ぜることを忘れない。不遜と言うならば敗将の彼女こそが相応しい。敗れた相手を前にしてなおふてぶてしく自信を失わない尊大さは一軍の将らしかった。

「鬼神が美しい女だというのは反則だな。何を言われても許してしまいそうになる。俺も出来ればあんたと戦場で顔を合わせるのは、もう御免被りたい」

くつくつとアシュヴィンは笑った。それは二心のない無邪気な表情で、姫もつられて力を抜いて笑った。まるで悪戯を共有する子供のような親密さが二人にはあった。その親しさは交戦中の三月、兵の展開・兵站状況・残存兵・防衛線・和平工作と限りない事柄について互いの思考を読みあってきた仲ゆえだった。知らぬは顔ばかり。和平調印の席で初めて顔を合わせたときも、「ああ」という感慨が深かったのは互いだった。

「あんたの辺境地を落とすのに掛かったのは三月だ。遊んでいるのかと何度本国から文が送られて来たか。手を焼いてくれた」

アシュヴィンは賞賛の言葉を送る。

「それは我が軍も同じこと。貴殿にはついに敵わなかった。完敗だ。寛容な和平案にも感謝している」

姫も中つ国で最も礼の高い跪拝で返す。

「ようやく我が国に舞い降りた戦女神をやすやすと手離すわけにはいかないからな。姫には十分我が国を楽しんでいただくつもりだ」
「私もそれを願っている黒雷。中つ国の地は二度と踏まない覚悟で貴殿に下ったのだ。失望させてくれるな」

軽口を叩き合いながら廻廊を進むと、姫の居室となる部屋へ着く。その部屋は、捕虜であり亡国の王族である、つまりは何の利用価値もないただの異国の女を迎えるには上等すぎる部屋だった。

「これは黒雷。国もない今、私には何の利用価値もないぞ。厚遇には感謝するが、返せるものなど何もない。私は地下牢のつもりで貴殿に従ったのだが」

磨き抜かれた大理石の床。品のよい文机、書棚。糊の効いたシーツは、設えに繊細な彫り物をされた寝台に。部屋に控える側仕え女は二人。姫は戸惑ってアシュヴィンを見返した。

「俺はあんたを捕虜と同時に尊敬する将として迎えたい。もてなしは出来んが、最低限の暮らしは保障する」
「最低限などと、勿体ないぐらいだ。感謝する。貴殿に下れたことは幸運だった」

姫は部屋を見回してただただため息をついていた。それは男勝りに戦場を指揮する戦姫でもなければ、亡国の捕虜でもない。呆れるぐらい普通の女の姿だった。

「遅いぞアシュヴィン。お前は満足に捕虜を連れてくることも出来ないのか」

すると後ろから低い声の男がアシュヴィンに声を掛けた。不機嫌が滲んでいた。

「随分と歓迎してくれたじゃないかサティ。ここは一等の客室じゃないか。まさかお前がこの部屋を用意するとは思わなかったぞ」

アシュヴィンはその不機嫌に構うことなく姫と引き合わせる。眉間に皺を寄せるその男は、豊かに渦巻く紅髪と白皙の肌の美しい姿をしていた。

「長兄のナーサティヤだ。あんたの処遇は俺の宮で構わないと言ったのだが、俺はあんたに甘いらしい。信用ならないとあんたを攫われた」

ナーサティヤと呼ばれた男は表情ひとつ変えず観察するように姫を見ていた。姫も臆することなくその目を見返す。男の目に浮かぶのは侮蔑か冷笑か。姫も薄く笑いながら値踏みする。紅色の髪以外はあまり似ているところのない兄弟だった。

「噂はかねがね炎雷殿。中つ国は宮家の一の君姫だ。貴殿の世話になる」

透明な声は高い天井の部屋によく響いた。

「常世の国皇子ナーサティヤだ。そなたの身柄を預かる。不自由があれば遠慮なく申すがいい」

ナーサティアも通り一遍の社交辞令を口にしただけで距離を縮める気はないようだった。

「では俺はこれで。任せたからなサティ」

兄の肩を叩いてアシュヴィンは踵返した。その靴音が響くと同時に、姫はその背に追いすがる。

「黒雷」

背を向けたアシュヴィンに姫は懇願する。

「徴税もよい。労使も仕方なかろう。私はただの捕虜だ。何を言う権利もないことは承知だ。しかし黒雷。あまり民を苛めてくれるな。あれに抵抗する力はない。頼む」

一杯に見開かれた目には彼女が5年を過ごした民たちの姿が映っていた。何のために常世の国に下ったのか、彼女は忘れない。何のために戦ったのか、何のために多くの犠牲を払ったのか、それはすべて彼女の表情が物語っていた。

「案ずるな一の君。約束は守る」

振り向きざまにアシュヴィンは再度、約束を確かにする。その背を見送りながら姫は強く拳を握った。信じていないわけではない。けれど――。

「あれは一度口にしたことは翻さない」

拭い切れない不安にいつまでも廻廊を見つめる姫を慰めたのは、ナーサティヤだった。言葉少なだが、偽りは感じられなかった。驚いて見上げた姫だったが、見上げた先には意外にも冷たさはなかった。

「私にも民がある。そなたの心中は分からないでもない」
「……、感謝する。貴殿とは上手くやっていきたい。貴殿には余計な荷物だろうが、よろしく頼む」

姫は、ナーサティヤにも最上の跪拝を捧げた。臣従の証だった。

「そなたが二心抱かぬ内は。長旅であっただろう。今日はもう休むといい」
「心遣い痛み入る。甘えさせていただこう」

姫は部屋の重い扉を閉めた。それが常世の国での生活の始まりだった。


20081221