常世は陽の沈まない国だった。不気味な太陽が空高くで燃え、朝もなければ夜もない国だった。一日の始まりと終わりの境界の定まらない日々は、姫に不安定をもたらした。まず身体の指針から狂い始め、その身体に引きずられるように心が揺れ始めた。眠りの不規則、無気力、連続する浅い夢、味わったことのないしんどさ。それらはすべて初めての感覚で、姫は余計に寄る辺を失う怖さに襲われた。 「気がおかしくなったか」 一人には広すぎる居室の窓辺に、かろうじて姫はもたれていた。精神が侵食されるような不安。意識は常にぼんやりとし眠りの感覚をもたらしたが、眠りに落ちたところで浅い夢しか待っていない休まらない日々。侍女と二三の言葉を交わすだけで、一人きりの生活は単調で姫の意識は加速度的に飲み込まれていくようだった。まるで自己が攪拌していくようだった。 (盛られた、ではないな) 重い頭を振りながら意識を保つ姫は、この急な変化の原因を見つけようと足掻いていた。 (毒物の幻覚、というには意識ははっきりしている。その割りに意識が遠のく。何だこれは) 足元の可変は心もとなさを生み、更に不安を呼び込んだ。常世の国での暮らしは一月にも満たない。頼れる者もない異国の地で、姫は気を確かめる術を持たなかった。病というには痛覚を伴わない。暗示と言うには姫は自分自身の利用価値を見出せない。恨みというならば納得だが、呪術か毒か。姫は苦痛に顔を歪めることしか出来ない。 「何だこれは……」 ぐらりと世界が揺れる。眠りとは異なる落ちていく感覚。姫は自身の身体を支えきれずに冷たい大理石の上に倒れた。 +++ 姫は額の冷たい感覚で目が覚めた。背の下の柔らかな感触で寝台に横たわっていることが分かった。 「気が付いたか」 声につられてそろそろと目を開けると、そこには目の覚める紅い髪があった。 「炎雷……、か」 「気は確かなようだな」 姫の覚醒を確認すると、ナーサティヤは側に控えていた侍女に何事か言いつけると彼女を部屋から出した。 「水を持ってくるように言いつけた。しばらく待て」 「すまない炎雷。私は……、気を失ったのか」 「あれが倒れているそなたを見つけた。意識を食われていたのだな」 ナーサティヤの座る椅子が軋む。たったそれだけの音が耳に付く。静かだった。耳が痛い静寂は一抹の居心地の悪さと余りある安堵の時間。久しかった。軍を率いていた頃は、常にざわめき、剣戟、笑い声という人の気配の絶えることのない生活だった。 「そなたは中つ国では巫女をしていたそうだな」 姫の不調の原因を知るようであるナーサティヤは、姫の突然の変調に特に驚いた様子は見せなかった。 「いかにも。戦乱の前は祭事を取り仕切る神殿付きの巫女だった」 「ならば仕方あるまい。確証はないが、あの禍日神は巫力の強い者の意識に干渉するらしい。正確には干渉というよりもあれの撒き散らす気に、過敏な者が反応するといったほうが正しいようなのだが、そなたも中てられたのだろう」 ナーサティヤは腕を組んだまま不快な表情をした。 「我が国がおかしくなり始めたのはあれが現れてからだ」 砂の大地に黒い太陽。不吉といわず何と言えばよいのか分からない災厄は空を支配し続けていた。 「最初に枯れたのは空の青だった」 遠くを見つめる瞳快晴の空よりも濃い紺の瞳。深淵だった。心臓がひとつ、高鳴った。 (よくよくと私はこの色に縁があるのだな) 姫は縁の因果に苦笑し、その目に見惚れた。置き去りにしたその色と目の前のその色は、同じように国を憂い未来を探す真摯な光を湛えた。断ち切ったものが再び巡ってきたとでも言うのだろうか。 「我が国でも祭司だけでなく感応しやすい子供や老人が、各地で気狂いを起こしている。しかし耐性がつけば直に治まる。今しばらく耐えろ」 「すまないな。世話を掛けた」 ナーサティヤの目が寝台に戻ると、姫は上手く視線を散らした。もっと見ていたいと心は騒ぐ。これまでの5年で姫はそんな誤魔化し方ばかりが上手くなった。目と目が合い、その気恥ずかしさに頬でも染められれば何か変えられたのだろうか。何の役にも立たない後悔が頭を掠めた。 「随分とうなされていた。誰かを呼んでいるようだった」 「幼子だな。情けない」 姫は苦笑した。身体の調子が狂ったことよりも、容易く揺らいだ心に自嘲した。一人きりになったからだろうか。側にいないからだろうか。姫は布団から手を伸ばしナーサティヤの右手を握った。 「眠るまででいい。こうしていてもよいか。人恋しい」 姫はその温もりに安らぐ心に、自分が想像以上に疲弊していたことを思い知らされた。 「うわ言で呼んでいたのは好いた男ではないのか」 ただの鎌掛けなのかはっきりとその名を口にしていたのか姫には分からなかったが、その率直さは酷く心地よかった。 「ただの寝言だ。それとも嫌いか。安直に温もりを求める女など」 「随分と明け透けに物を言う」 「繕うの性に合わぬ。貴殿は私よりも年嵩だ。甘えは捕虜の分際で図々しいか」 見透かされているなら尚更、姫はその温もりを欲した。 「なぜ我が国に下った中つ国の姫よ」 「敵わぬからだ」 「そなたが捕虜となれば烏合の衆であろう。そなたはそれを捨ておけたのか」 切り込む視線は鋭く試される――、確かめられる。 「私など捨石よ」 姫は強く目を瞑った。息を吐く。強く繋いだ手を握った。 「星がひとつ中つ国に帰る。私の役目は終わった」 「予言か。そなたは未来を見る託宣の巫女であったと聞いている」 「龍神を呼べぬなら何者でも同じだ。月が満ちる頃、中つ国の星が帰る。国は再び立つ」 その声が告げた未来は確実だと、信じさせる力。今ナーサティヤの前にいる女は将ではなく巫女の顔をしていた。不穏の言を咎め罰することもできた。しかしナーサティヤは握られた手を見ただけだった。 「意味深だな」 「待てば分かる」 それだけ言うと姫の声はぶれた。 「温かいな。眠るのが勿体なくなってき――……」 とろりとしていた目は再び眠りに落ちていった。その頬には色味が戻り、姫は次期に回復するだろうことをナーサティアに予感させた。 「中つ国は妙な姫が多い」 ナーサティアは、かつて落城する炎の中で遭った幼い姫を思い浮かべ一人ごちた。黒の太陽に隠れた月は、小望月。月は満ちようとしていた。 → |