黎 明 薪の燃える音が僅かに届く。澄んだ冬の空気は肺を満たして身体を冷やす。空には欠けた月に星がひとつ添っていた。湖面に映る月が風になびく。凍えた湖は姫の足元から広がっていた。 「こんな所におられたのですか」 静寂を破るのは忍人の険のある声。忍人の目を盗んで抜け出していた姫を探してすっかり息が上がっている。 「さすが早いな忍人」 振り返りざまに耳飾が鳴った。姫は少しも悪びれない顔で忍人の労をねぎらった。 「だったら大人しくテントで休んでください」 姫の警護をする忍人からの小言は、姫にとっては挨拶代わりだ。肩を上下させる忍人の吐く息は白く、顔は苦りきった顔をしている。そういう顔をするから困らせたくなるのだということを姫は忍人に秘密にしていた。 「何をしておられたんですか」 「見ろ」 姫は一通の書簡を忍人に差し出した。宛名もなければ差出人もない書簡だが、内容は忍人を怒らせるに十分だった。 「何ですかこれは!」 「今しがたな。黒雷の使者とやらが寄越した」 「ありえません。防衛線は張ってあります。不可能です」 「抜かれたんだよ忍人。もう限界だ」 姫は寒がるように自身の腕を抱いた。薄雲が流れて月を覆う。まるで暗雲を暗示しているようで意味もなく不吉だった。忍人は唇を噛んだ。目は怒りに染まり、不愉快を隠そうとはしなかった。 「それでも何ですかこの条件は!言語道断です。検討に値しない」 忍人は吐き捨てた。姫は笑った。 「笑える話ではありません」 「お前が怒ってくれるから私は笑えるのだ」 姫は忍人の肩を叩き無邪気だった。忍人はそれでも剣呑な目で姫を睨む。射すくめられた姫は笑いを仕舞ってはぐらかすのをやめた。 「私は悪くないと思うぞ。私一人で済むのなら安いものだ」 「ご自分にどれだけの価値があるのか自覚してください。兵も民も、お見捨てになる気ですか」 姫はかつて、今や亡国となった中つ国の有力な宮家の一の君だった。国を追われた今は、数少ない中つ国の生き残りを束ね常世の国に反旗を翻し続ける戦姫として軍を率いていた。忍人は戦場すらも駆ける姫の護衛役として常に側で付き従い、姫を支えていた。二人きりのときに砕けた空気となるのは、姫と将軍という以上に二人が幼馴染であることに起因した。忍人より年が3つ上の姫が、年下の忍人を困らせその度に忍人が本気になって怒る。そんな間柄だった。 「それがそうもならぬようでな」 姫は目を細めて空を仰いだ。星が瞬く。月は薄雲から顔を覗かせ、眩しい光を落とす。姫は忍人の肩に額を寄せる。風が鳴く。 「星が帰るぞ忍人」 「……、何か見られたのですか」 「ああ。二の姫が帰る」 姫は迷いなく言った。その揺るぎなさは国を追われた民たちに力を与えた。その強さが侵略への反抗となった。そして今、その冷静な判断が彼女自身を切り落とそうとしていた。 「安いだろう。私と交換で休戦協定なら、釣りを出さなければならないぐらいだ」 姫は重ねた。中つ国が在りし頃、戦姫と呼ばれる前の姫は巫女姫として神殿に仕えていた。先読みの目を持つ巫女として託宣を下し占を行い、祭事を取り仕切っていた。その目に映ったものが、外れたことはなかった。 「限界だろう。兵も、民もお前も」 姫は忍人の濃紺の双眸を覗き、その頬に触れた。その顔もかつては彼女の肩よりも低い頃があった。かつての見習い剣士はあっという間に将軍の名に恥じない成長をし彼女を支えた。5年。その時間は少年を将軍にした。深窓の姫を戦に駆り立てた。 「ニの姫が戻る。あの月が満ちるまでには必ず。だから私はその時間を稼ぎに行く」 常世の国との交戦はもう限界だった。終わりの見えない戦は疲弊だけを強い、兵も物資も底をつき始めていた。今も皆は泥のように眠っている。姫はもはや戦う意味を見出せなかった。 「こちらが降伏するならそれ以上の手出しはないとの申し出だ。黒雷は仁義がある。こちらが攻めぬ限り約束は違えぬはずだ。皆、畑を耕す方が似合いだ」 姫は忍人から離れた。淡々と言い連ねると、足元の小石を拾い湖に投げた。その放物線は湖面の月を乱した。 「私の力が足りないばかりに、お前には持たなくてよいものを持たせたな」 姫の声は闇に溶け込んだ。透明な声に彼女の色はなく、あまりにらしくい謝罪だった。それに答えるように破魂刀は低く呻った。大気に吸い込まれるその共鳴は星の瞬きに向かって霧散した。 「お前の命も夜空へ還ったのだろうかな」 姫はの呟きは空に上らず宙に消えた。 「身体は平気か忍人。お前こそ休むべきだ。顔色が悪い」 「それはあなたも同じだ。二の姫などどうでもいい。常世など行ってどうなるか。政争の道具にされて終わりだ」 「私は王族だ。お前が剣を振るい民を守るよう、私にしか出来ないやり方でお前達を守る」 姫の決意は固まっていた。こうなってはいくら言い縋っても決意を翻さない頑固さを忍人はよく知っていた。 「私は王族だ。守れなければ存在する意味はない」 「姫!」 「責任を取りたいのだ。お前に報いたい」 姫は困ったように笑った。その表情は仕舞いにして欲しいと懇願しているようだった。 「二の姫のこともどうでもいいなどと言うな。あれはお前より若い。助けてやってくれ。側で姫を支え、中つ国を再び立たせてくれ」 忍人が口を開きかけるのを姫は遮る。忍人が何を言いたいかなど分かりきっていた。 「お前は中つ国の将軍だ。国を守れ」 それでも忍人は納得をしない顔をしていた。一瞬も逸れない目はたった一人だけを映して離さなかった。 (ああ、行きたくないな) 姫はその深淵に引き込まれる。自分だけが映る、自分だけを見つめる、真摯な瞳。求められていると錯覚させられる。絆されない方が無理だ。情が絡む。背筋が熱くなる。不快ではなかった。愛おしいのだ。仕方がなかった。彼女は忍人を抱き締めた。 「違えるな。中つ国を統べるのは二の姫だ。聞き分けろ」 最後の一言は忍人にだけ言った言葉ではなかった。一番聞き分けなければいけないのが誰かは、彼女が一番よく分かっていた。 「お前に守られるのは心地よかった」 姫はいつも目の前にあった背を強く強く、指が白くなるまで抱いた。いついかなるときも彼女の盾となった背中は彼女が縋ったところでぶれることはない。その強さが頼もしかった。けれど今はその強さが憎らしい。どうあっても忍人を揺らせない悔しさ。迂遠な告白が彼女の全てだった。 「あなたはいつも勝手だ」 忍人はされるがままに立ち尽くしていた。 将である忍人は決して姫である 姫を抱いたりはしない。それもまた彼女には分かりきっていた。星が流れるように、涙が一筋落ちた。
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