春の雪
静かな女だった。
柔らかく差し込む陽射しの中でいつも一人、居住まいを正して本ばかり読んでいた。
それは嫁いだ先を我が家と定めないための緊張なのか、夫となった男への警戒なのか、小十郎には判然としないところだった。
しかし元より彼女が小十郎に気を許さないのと同様、小十郎もまた彼女に関心を抱いていなかったのでその頑なさに興味はなかった。
罵り合うこともなければ睦言を呟きあうこともない夫婦仲は政略結婚ゆえ。
小十郎にとっては差し出された娘が思いのほか美しかったことだけが計算外の地歩を固めるための婚姻だった。
女にしても武家に生まれた子女の運命に他ならない。
利害の一致、予定調和の縁談に一番興味を持っていなかったのは当事者の二人だっただろう。
小十郎は襖に肩をもたれかけ読書する女の背中を眺めていた。
足先は畳みの縁を踏み、身じろきの気配を隠そうともしていなかった。
女はそのことに気づいているのだろうか。
きっと気づいているだろう。
動揺も怯えも微塵も見せない背中は恐れを知らないのか、殺されることだけはない身の上を知っての小賢しさなのか、やはり小十郎には分からなかった。
春の陽射しが寒々しく二人を分かつ。
陽射しは柔らかくとも風はまだ冷たく指先を冷やしていく。
彼女が振り返るか、小十郎が痺れを切らして立ち去るか、他愛のない駆け引きだがいつも緊張感が張り詰める。
だがこの駆け引きは夫を無視し続けるわけにもいかない女が、許容されるぎりぎりの時間で振り返り、
「何か御用が?」
と幕を引くのが常だった。
女は正確に小十郎との距離を測ることが出来るようだった。
気の短い日、長い日、荒れている日、穏やかな日。
いつも異なる駆け引きの時間を読みきり、さも今気がついたかのように振り向いてみせるのだ。
そういった意味では小十郎は彼女に負けっぱなしだった。
彼女が小十郎を読み間違えたことはまだ一度もない。
しかしそれは裏を返せば、彼女はいつも小十郎が背後に立った瞬間から気がついていることに他ならない。
お互い様だと、小十郎は薄く笑う。
「今済んだ」
振り向かせれば満足なのだ。
この台詞と、彼女のため息で駆け引きは終わりだ。
昼の今ならば、これで終わりだ。
しかし久方振りに漂う香りに小十郎の足は止まったままで、女はいつもと違う小十郎に戸惑った目をした。
「梅がもう咲いたのか」
小十郎は彼女の隣に立って、部屋の庭先で咲き誇る梅に目をやった。
梅の香は淡く甘く、白の花弁と相まって儚げに揺れている。
雪を錯覚させる白梅は春の呼び水というよりは冬の名残で、咲き散るよりも溶け消えてしまいそうだった。
そんな白梅を、女が朝の度に枝先に立って愛でていることを小十郎は女中から聞いて知っていた。
「屋敷では一番に蕾が開きました」
女は珍しく梅の香のように淡く笑った。
常に計算された無表情の女の、少女のような笑みを見たのは小十郎は初めてで、そういえばこのような年だったと不意に思い出したのだった。
「片倉の家でも興味があるものはあったんだな」
「小十郎様のわたくしに対するご興味よりは」
意地悪くというよりは率直な感慨で、女も毒を含んだ意趣返しというよりも事実を言っただけの淡々とした様子だ。
顔をつき合わせていても二人に語り合うことは何もなく、互いの目は自然と梅に向けられる。
早春の強い風に弄られた白梅は、縁側には白の花弁を幾枚も散らしている。
小十郎は畳みの縁を跨ぎ、縁側で光を浴びる花弁を拾って風にさらわせた。
花弁は風に乗って邸内の外へと踊り出る。
美しい花の美しい軌跡に目を奪われる。
花弁の行方を目で追ういながら、小十郎はただ花を眺めるなどという静かな時間の訪れは随分と久しいと思った。
女とこうした何をするでもない時間を持ったのも初めてではないだろうか、とも。
「」
「はい」
淡い藤の着物はの白い肌によく映える。
邸内はしんと静まり返り、けれど耳に痛い冬の静寂とは異なり柔らかい。
雪解け水の流れ込む川はついに音を立て冬は溶ける。
「好いた男はいたのか?」
袖に入れたままの腕を出すこともなくぞんざいに小十郎は聞いた。
祝言までに、諦めた思いはあったのだろうか。
優しさや労わり、まして謝罪などではなく、
祝言の日ですら戦で顔を合わせることのなかった男をどう思っているのか気まぐれに聞いてみたくなっただけのことだ。
突然の問いには瞬き、梅に目をやり、そして小十郎を見つめ返す。
その所作はひどく幼く見えて、意味もなく小十郎は微笑みたくなった。
けれど、がどちらと答えようと小十郎の答えは「そうか」に決まっていた。
「昔のことは忘れました」
鶯が鳴いて、風がやみ、はそっと目を伏せた。
その面差しは美しいと小十郎は見惚れる。
「ただ、今お慕い申し上げている方にそのような無体なことをおっしゃられてはわたくしとて傷つきます」
枝が不意にしなった。
枝先に止まっていた鶯が幾つかの花弁を散らせて飛び立ったのだ。
立つ鳥は後を濁したが余韻は美しい。
部屋には二人だけが取り残される。
咄嗟に小十郎は声が出せなかった。
があまりにも頼りなく、思いがけなく心を見せたことに混乱したからだ。
けれどふと見下ろすしたは、目は伏せたままだがその口元は小刻みに震わせていて、小十郎はまんまと乗せられていたことに気づいた。
「この雌狐め」
柄になく動揺した小十郎だったが、その笑みを見てこれこそが意趣返しだったのかと憮然とした。
一杯は食わされた悔しさを無理やり押し込めたような不機嫌はにはお見通しのようで、
「小十郎様はお優しゅうございますね」
と素知らぬ顔で微笑んでいる。
壊れ物の人形のような顔していながら、存外にしなやかな枝の気性に小十郎は敵わないと降参した。
「俺はお前に寝首を掻かれても不思議はないな」
小十郎はがりがりと頭を掻いて、少し躊躇ってから乱暴にの隣に腰を落とした。
乱暴な物言いが照れ隠しだと自覚があった分、憮然としてながらも座りが悪い。
触れるか触れないかの距離は微妙で、触れるのか触れないかの交わりしかしてこなかった小十郎は少し面映かった。
縁側から射す光小十郎との膝元まで伸びて、温かな空気は眠気を誘った。
このままここで寝たら心地よいだろうと目を閉じかけたとき、
「しかとそうお考えでございますか?」
の固い声が小十郎の意識を覚醒させた。
「わたくしが小十郎様のお首を取ると、まことにお考えでございますか?」
冗談は思いもよらない激しさで小十郎に跳ね返された。
その口元に笑みはもうない。
一瞬何のことか分からなかった小十郎だが、すぐに思慮を欠いたことに気づいてじっとを見た。
小十郎が片倉を背負うのと同様、も実家を背負って嫁いでいるのだ。
そしてをどう扱うのかは小十郎の意一つだ。
「わたくしは、いつまで小十郎様のお側に置いていただけるのですか?」
それは、最早冗談など一片も含まない切実な訴えだった。
そしてお家大切以上の抜き差しならない感情がに見え隠れして、小十郎は息を飲んだ。
きっと、と縁を切った場合に起こる戦の無為さや、相互の家に招く醜聞を説くことではを納得させることは出来ない。
が欲しているのはもっと簡単な答えだと小十郎にも知れた。
「お前はずっとそんなことを考えていたのか?」
逸らさない目の強さが何より明白に答えを語る。
小十郎に怒りはなかった。
それが小十郎の答えだ。
小十郎にと離縁をする意思は欠片もない。
今までに考えたこともなければこれから考えることもないだろう。
しかし「今まで」のことも「これから」のことも、政局の情勢次第の話に過ぎない。
の実家との同盟関係は良好で、おまけに同盟締結時の利益も何ら失っていない。
対外的にも大きな問題も起こっておらず、そんな「今」が続くならとの離縁などありえないというのが小十郎の理由だ。
それはつまり政治的問題でしかなく、自身というよりもの実家との縁を考えた場合の話だ。
勿論の気性の穏やかさ、つまりが側に置くに耐え兼ねないほどの猛女ではなかったということもあるがそれは瑣末な問題でしかない。
伊達家に必要であると言われれば、小十郎はどのような女でも側に置いただろう。
ほんの軽口にさえ不安を覚えられたことに、小十郎は怒りは感じない。
も小十郎との縁談を「家」だけの繋がりと考えていたなら、決してこのように必死な目をしないだろう。
いつからの気持ちは動いていたのか、それすら小十郎には見当もつかなかった。
が小十郎を思う以上に、小十郎はを顧みてはいない。
それがはっきりとして、それでもは唇を噛み締めて小十郎を見つめ続ける。
だが、驚いたことに小十郎はそのことが後ろめたかった。
視線の強さに負けて目を逸らしたのは小十郎が先だった。
小十郎との出会いは最低だった。
これは小十郎が受けるべき咎で非はすべて小十郎にある。
にとっては恐ろしい以外の何ものでもなかったはずだ。
もとよりこの政略結婚に「愛情」など求めていなかった小十郎だが、
これでこの女が自分に愛情を向けることなどこの先ありえないだろうと思っていたのだが。
は自身を落ち着かせるためというよりも淡く、諦めたように息を吐き出した。
小十郎には、その表情が図らずも気持ちを吐き出してしまったことを自責している表情に見えた。
きっとは小十郎に気持ちがないことなど知りすぎるほど知っていた。
「春には雪が溶けますでしょう?わたくしは雪の頃に参りました。
こうして庭の雪が溶けていくのを眺めていると埒もないことばかり考えてしまうのです」
だから、続けてしまったことの後始末をつけるために何か続けなければと紡ぐの言葉はほとんど独り言のようで、
に言ってやれることが何もないならば今までのことは聞かなかった振りをして立ち去るのが小十郎にできるただ一つのことだ。
けれど。
水面が静かに波紋を広げるように、の不安が小十郎に伝染する。
の横顔は陽に透ける。
その頼りない儚さに触れてやりたいと思うのはあまりにらしくないと思いながらも、小十郎は言わずにはいられなかった。
「俺はあの白梅を雪のようだと思ったのだが」
小十郎は裸足で庭へ降り、今が盛りと花開く梅を一つ摘み取りの髪に挿してやった。
「椿も、梔子も、萩も水仙も沈丁花も、みな雪のように白い」
微笑んでやれるほど器用ではない。
ついでに頭を撫でてやると泣きそうに笑うの小ささが今度は壊れ物に見えて、手を離すことが出来なくなる。
あの強い目がたったこれだけのことで行き場を失って伏せられてしまうこと。
悲しげな微笑がやがて淡く染まる頬に変わること。
それらのことに小十郎は言葉一つ見つけられず、ただの髪に挿された白梅は強い衝動に花弁を散らし雪のように舞って空へ吸い込まれた。
(2007/7/24)
※二人の最低の出会いはこちら。
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