恋しいけれども愛しているにはまだ 遠い 『国のない王女とは滑稽だな』 5年前、捕らえた少女にアシュヴィンはそう言った。 +++ その宮は、宮廷にあるいくつもの宮の中で最も古く最も位の低い朽ちかけの小さな宮だった。 代々宮を受け継いだ伯爵家の系譜が途絶えると宮は長い間放置され、室内は埃と蜘蛛の巣、庭には雑草が繁り荒れ果てていた。 しかし5年前、隣国の捕虜が暮らすようになってから宮は密かに改修された。少女が一人、暮らせるように。 「本当にお前は隙がないな」 「嗜みでございます」 少女は隙なく、突然訪れたアシュヴィンに言ってのけた。 訪問の取り付けをせず、突然少女の宮を訪ねるのはアシュヴィンの常套手段だった。 どれだけ不意をつこうとしても少女はいつでも中つ国の王族の着物を完璧に召し、邸内に荒れたところは見当たらず、 常世の皇子であるアシュヴィンの訪問にも動揺を見せなかった。 今日もお茶のテーブルには梔子が添えられていて、甘い匂いを放つ。彼女の生活は質素で上品だ。 少女の宮は豪華な装飾の一つもなければ、仕える人も僅かな閑散とした宮だが「暮らす」ことに誠実で穏やかだった。 「アフタヌーンティーの邪魔だったか」 「ご冗談はおよしください」 アシュヴィンは皮肉な口調で、お茶の最中だった少女に言った。 少女は手にしていたティーカップをソーサーに戻す。 たったそれだけの所作すら美しく、少女の生まれのよさを語った。 「お座りください。私とのお茶がお嫌でなければ。おもてなしいたします」 少女の声は淡々としていて怒っているのか呆れているのかすら伺うことは出来ない。 「今、あなたのメイドに用意させますから」 それが嫌味なのかはアシュヴィンには図りきれなかった。 というのもこの宮の執事もメイドもすべてはアシュヴィンの息の掛かった者ばかりで、彼らの任は少女の世話役というよりは監視の役が強かったからだ。 少女は宮に一人きりで暮らしているに等しかった。一人で暮らすには広すぎる宮で、彼女が何を考え何を思っているのかをアシュヴィンは知らない。 「今日はどのようなご用向きで、殿下」 陽の差し込むテラスは午睡を誘う心地よさで、アシュヴィンは思わず柔らかな光に目を細めた。 「お前に会いに来た、では足りないか二の姫」 彼女はいつものアシュヴィンの軽口にため息をつくとカップに口をつけた。 少女はアシュヴィンと話すときはいつも伏目がちで、 それは彼女の明瞭な物言いにそぐわずアシュヴィンの気を引く。 躾けられた所作なのか彼女の気質に由来するものなのか。 それは時に弱々しくもあり誘われるようでもあり、 脆弱な花の美しさのように思われた。 「このような辺鄙の宮にお越しになれるほど常世は平和になったのですか」 空の遠くには黒の太陽。この宮はかろうじてその災禍にさらされてはいないが、黒の太陽は肉眼で捉えられるまでに近づいていた。 この宮が荒れ始めるのも時間の問題だろう。 常世のあちこちは荒廃が進み、脆弱な花などあっという間に枯れ果てた。死に行く国を止める手立てをアシュヴィンは持たない。 そよそよと頬を撫でる風が平和を錯覚させる。かつてこの国も緑豊かな美しい国だった。 「平和にならないからだよ二の姫。お前の中つ国は、今でも美しかった」 アシュヴィンは少女の長い髪を掬いとる。少女は顔を背ける。 梔子の花では掻き消えない血の匂いが、アシュヴィンには染み付いてた。 中つ国への先陣を率いるのは常世の国の皇子の勤めだ。 「お前の髪は金の稲穂だな。常世も早くこの金に染めてやりたい」 アシュヴィンにとって目の前の少女は夢の形だった。豊かな国の美しい姫。金の髪は豊穣の象徴。 常世の国は中つ国を滅ぼしたが、欲しいのは中つ国ではなく中つ国のような穏やかで豊かな常世の国だった。 「お前の民はまだいるのか」 アシュヴィンは見た。確かに中つ国は常世よりも美しい。けれどそれはもう常世と比べればという話にまで落ち始めていた。 中つ国は5年前に滅んだ。常世の国が滅ぼした。 中つ国の復興を願う生き残りの声も最早か細く、「中つ国」の欠片は今やどこにも見当たらない。 中つ国がまだ人々の心のうちに存在するとするならば、それはこの姫の存在に因る。 実際に捕らわれたこの姫を取り返そうと何度となく中つ国の生き残りは常世に攻勢を仕掛けてきたが、 虫の息の兵達が常世の精兵が敵うはずはなく、次第にその勢いは衰えていった。 少女が中つ国の姫としてあることだけが「中つ国」の存在させる。しかしそれももう限界だった。 少女は決してアシュヴィンに隙を見せない。それは彼女が「姫」だからだ。 アシュヴィンはたった一人で国を支える少女が痛ましかった。 情が移った。 『国のない王女とは滑稽だな』 5年前、捕らえた少女にアシュヴィンはそう言った。 少女を初めて見たとき、アシュヴィンは哀れだと思った。 炎上する橿原宮で、供もなく血の海で一人立ち尽くしていたという少女は幼女といって差し支えなく、 ただ一人の王族の生き残りとして捕らえられた。 王族の責を果たすには年若く、末の弟とだぶって見えたこともあってアシュヴィンは同情した。 しかし少女はそんな哀れみを跳ね除けるかのように気丈に振舞った。 少女は頑なに心を閉ざし、一人書物ばかりを読みあさり、訪ねてきたアシュヴィンを無視することも度々であった。 しおらしく、涙の一つでも見せれば構ってやらないでもないと思っていたアシュヴィンはそれに苛立った。 やがてその苛立ちが口をついて、毒のある一言を放り投げていた。 それは今日のような木漏れ日と風の優しい午後だった。 緊張の糸が張った。 いつもならアシュヴィンに目もくれない少女は書物は置いた。小さな手だった。 『国はなくとも、民はあるわ』 言い切った声は凛と響いた。 アシュヴィンを睨み返した目は12の子供の目ではなく、「国」を知る為政者の目だった。 『民がいる間は、私はここにいる』 迎えが訪れることを少女は信じていた。 アシュヴィンはその幼さに同情することの誤りを悟った。 それからも少女は変わらなかった。 以前より会話をすることは増えても、心の在り様は決してアシュヴィンには見せなかった。 彼女は完璧に人質の役割を果たした。祖国の惨状を聞かされようと、暗殺者が送り込まれようと、食事に毒を混ぜられ死の際を彷徨おうと、寂しいとも怖いとも言わず、泣きもせず怒りもせず、笑こともせず5年を過ごした。中つ国を滅ぼしたのは常世の国だ。中つ国への進軍と止める気もない常世のが皇子が、中つ国の姫に同情するのは偽善だ。 (でもな二の姫) アシュヴィンは堪らなくなる。もういいだろうと、その細い肩を抱いてやりたくなる。少女はあまりにも痛々しい。 「殿下が欲しいのは中つ国ですか。それとも私ですか」 乾いた双眸がアシュヴィンを見据えた。不遜ではなかった。 彼女はアシュヴィンが欲しいのが中つ国だと知っている。 だから仮託されたことに皮肉を言う。怒っているわけではなかった。 (哀れだな) アシュヴィンは何度となく思う。 帰る国はない。迎えがあるはずもなく、誰からも忘れられながら、一人きりで過ごす日々。 持てるものは何もなく、どこへ行けるわけでもない。そんな少女の肌はきっと、体温を忘れてしまっているに違いない。 (ああ、愛おしいな) 可哀相で愛おしい。 それは偽らざるアシュヴィンの少女への思いだった。 だからアシュヴィンは、目の前の少女にキスをした。 彼女が誰だか分かっていて、キスをした。少女の目からは涙がこぼれた。
20081026 |