剥がれる偶像





(ごめんなさい嘘でした)



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二人の関係は少し、変わった。アシュヴィンは訪れる前には使者を遣わし、空けたときには文を寄越した。顔を合わせているときにからかうことも憎まれ口を叩くこともすっかりなくなった。少女が書を読んでいれば向かい合って本を読み始め、楽を奏でれば何も言わずじっと聞き入った。言葉は少なくなった。しかし空気は濃密になった。

「殿下」
「何だ」
「いえ。何でもありません」
「おかしな奴だな」

少女は優しいアシュヴィンに戸惑っていた。乾いた大地。沈まない太陽。狂う人心。何もかもが異常をきたす国の中で、あまりに似合わない平穏な時間が二人の間には流れていた。あまりに不似合いで不自然だった。

「おかしいのは殿下でございます。お疲れでございますか」
「そう見えるか」
「厳しく当たるより、優しくした方が楽なときもございましょう」


アシュヴィンは苦笑した。書を繰ることを止めた。

「それはお前に対してということか、二の姫」
「ここより他の殿下を私は存じませんが」


アシュヴィンは困った顔をして口を開きかけたが結局は何も言わなかった。

「お前といると情けないことを言いそうになるな。今日は分が悪い。帰る」

アシュヴィンは席を立つ。見送りに後をついて行くと、少女は玄関先で口付けされる。優しくされる。愛おしげに触れられる。寂しさが愛されていると錯覚させる。けれど、情けをかけられていると分かっていた。

「しばらく空ける」

アシュヴィンは言った。 なぜも、どこへも少女は聞けない。 黙って頷いた。

「お気をつけて」

言える言葉は限られていて、少女は何が出来るわけでもない。 今日はもう帰るというアシュヴィンを玄関先まで見送って、振る手を下ろして少女はため息をついた。

(ごめんなさい)

アシュヴィンに触れられると少女は胸の中で謝った。 口付けをひとつ落とされるたびに、心が冷えた。 風が冷たい。秋の匂い。寂しさが掻き立てられて、少女はいつまでもアシュヴィンの背中を見送っていた。 アシュヴィンは涙の理由は聞かなかった。二人は何も言葉にし合わなかった。予感があったのだろうか。 少女は影が長く伸びるまで、いつまでもそこに佇んでいた。



中つ国の二の姫、龍神の神子が現れたという噂はその二日後に少女の宮にも届いた。 少女は終わりのときを知った。

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高千穂から帰還すると、戦装束を解かないままアシュヴィンは少女の宮へ赴いた。 月が中空を落ち始めた深夜だった。人を訪問するには常識外れの時間だったが、 眠っていたら叩き起こしてでも訳を問い詰めるつもりで彼女を訪ねた。 息を切らして居間に入ると、いつもの色彩鮮やかな着物ではなく、白いだけのワンピースを着た少女がいた。

「どういうことだ」

月光を浴びた手足が、透けそうなほど白く頼りない。 目が合うと困ったように眉根を下げた。 大抵が無表情で最近はほんの少し笑うようになって。 その二つの表情しか知らなかったアシュヴィンは泣いているのか笑っているのか分からない複雑な表情をした少女に戸惑った。

「姫様はお美しかったですか」

いつもの平たい喋り方よりも、幾分か柔らかくその声は響いた。

「お前は誰だ」

アシュヴィンは警戒の声音を隠さない。 しかし少女もその問いに答える術を持ってはいなかった。

「黙ってないで何とか言ってみろ!お前は誰なんだ」

その罵声に少女の身は竦んだ。少女は皮肉屋で優しいアシュヴィンしか知らなかった。 少女は震える声を飲み込んで顔を上げた。

「二の姫です。それは私の名ではありませんが、それ以外の名はありません」
「……影武者か」

アシュヴィンは吐き捨てた。舌打ち混じりに顔を歪ませる。

「大したもんだ。見事だ」

アシュヴィンは天を仰ぎ喉を鳴らしてと笑った。不自然な笑いはすぐに疲れた顔になり、椅子に腰掛けるとため息をついた。

「顔はあまり似てないな。が、髪の色が同じか」

じっと凝視されて少女は顔を背けた。居た堪れなかった。

「さて。どうしたものかな」

苦笑したアシュヴィンは本当に困っているようだった。 少女が亡国の姫であったときよりも、二人の関係も難しいものになった。

「よくもまあ5年もやりきったな。12だっただろう。耐えたもんだ」
「そのように訓練されましたから、殿下」

所作の美しさも、姫としての教養もすべては来るときのためにつけられた訓練の賜物だった。 風早と忍人に剣を習い、柊について教養を身につけ、一の姫を見ては王族の振る舞いを真似た。 すべては側で二の姫を守るために。必要ならば身が代わるために。

「親も友も私にはありません。覚悟は出来ています。ご処断を」

少女は床に額をつけ降伏した。

「言いたいことはそれだけか」

頭上では剣を抜く音がした。抑揚のない声が闇夜に冴える。

「もしお許しいただけるなら、ひとつだけ」
「言ってみろ」

冷たい声に思わず怯む。それでも腹に力を入れ、少女はたった一つの願いを口にする。

「どうか、姫様とお話になってください」
「その必要がどこにある」

苛立った声が突き刺さる。夜気の冷たさが勇気をさらう。 それでもこれが最後の勤めだと少女は息を吐く。

「私、常世の国も好きです」

住んだ土地に愛着を抱くのに5年は短くなかった。歴史の書を読み、広くはない範囲だったが国も見た。 今は荒廃の地でもいつかは――。

「風早様がいて忍人様がいて、兵達に慕われて。私はご幼少の姫様しか存知上げませんが、 そんな姫様は過ちを犯すような方になられているはずはありません。殿下とならきっとお話になれるはずです。 どうか、中つ国を攻めず、常世の国も滅ぼさないでください。私は、二つの国が豊かな実りの豊かな国に――」
「本当にそれだけか!」

少女の言葉はアシュヴィンによって遮られる。思わず顔を上げると、目の前には顔を赤くして怒るアシュヴィンがいた。 錆びた月が黒い太陽と重なる。強引に唇が重ねられる。驚いて身を引こうとすると更に強く引き寄せられる。息が上がった。

「冗談でお前に触れてたわけじゃないと、お前が一番知っているだろう」

常世の皇子。中つ国の姫の影武者。未来なんて、ない。

「情けでございましょう」

少女はアシュヴィンの気持ちの裏側にあるものを知っていた。その目からは次々に涙が溢れ落ちる。認められない。認めるわけにはいかない。欲しいけれど欲しがってはいけない。そんな感情の責めがありありと見て取れた。

「ならお前も俺に情けをかけてくれないか」

取り縋る手と、毅然とした態度。少女の矛盾する弱さと強さにアシュヴィンは惹かれていた。震える手を握ってやると少女は観念したようにアシュヴィンの肩に顔を埋めた。

「どうか、どうか美しい国を殿下。殿下がお治めになられれば、獅子王を越える治世となりましょう」

それは最大の賛辞でアシュヴィンは小さな身体を抱き締める。

「お前はそれを見るんだ」

アシュヴィンは少女の耳元で囁いた。 手を引いて少女を立たせると本棚の裏の隠し通路へ連れて行く。

「そのまま行け。手引きはしてある。急げ」
「殿下!」
「もし本当の二の姫がお前の言う通りの女なら、お前とはまた会えるかもしれないな」

少女は迷子の子供のような顔をした。

「そんな顔をするな。早く行け」

アシュヴィンはわざと乱暴に言う。名残惜しさが募る前に行かせたかった。少女は涙を拭った。

「どうかご無事で。殿下」
「今度会ったときに名を教えろ」

少女は一瞬何か言いたげに口を開いたが、必ずと微笑んで、穴底深く消えていった。 棚を元通りに戻すとアシュヴィンはその場に座り込んだ。空には丸い月が浮かんでいる。

「お前の髪は、金の稲穂より月光だな」

生きる糧の稲穂よりも、太陽の光を受けて輝く月。主がいなければ存在しない影武者。

「太陽を隠し守って輝き続けた月、か……」

落日の太陽に蝕まれる常世の国にはその月光が眩しかった。 主のいなくなった宮に立ち込めるのは梔子の香り。白い花弁は月の光を浴びてほの白く闇夜に浮かんでいた。



20081026