喜多の部屋を出て、は小さくため息をついた。 髪が強くたなびく。 もうこの風景も見納めかと思うと、は少し感傷的になった。 庭に咲く桜のつぼみはまだ固く、綻ぶ前には家を出ることを考えていた。

(諦められるだろうか)

は自問した。 離れられれば、本当に忘れられるだろうか。 家を出ることに迷いはなくても、気持ちを捨てることが出来るかには自信がなかった。 廊下の軋む音を聞きながらぼんやりと歩いていると、角の先から賑やかな声が聞こえてきた。

(まさか)

の心臓は跳ねた。 よく知った声に、面白いぐらいに動揺している自分がいた。 二人の共を従えて。 差し込む陽射しを全身に浴びて、楽しそうに二人の真ん中にいる方は。

じゃないか」

一番早くに気づいたのは成実だった。 あの賭けの日以来、久々に会った小十郎は笑いかけのような微妙な表情でに頭を下げた。

「喜多に会って来たのか?」

成実が言った。

「はい。無沙汰をしておりましたので」

か細く震えそうになる声をは必死で押さえ込んだ。 は出家することを成実にも伝えていなかった。 この方に話せば、おそらく政宗の耳にも入るだろう。 そのことをは望んでいなかった。

「義姉上も様を心配しておりましたよ」

小十郎が言外に出家のことを聞く。 あの日から今日までが長かったのは、だけではなかった。 顔を歪める小十郎にとっても長い日々だったようだ。 その表情を見て、ふっとは肩が軽くなったのを感じた。 まるで秘密のいたずらを共に仕組んだ悪餓鬼仲間のようだったからだ。 くすりと笑ったに小十郎は不思議そうな顔をした。

「喜多にも小十郎にも、随分心配掛けました」

は言外に出家を決めたことを小十郎に伝える。 小十郎は目を伏せてしまった。 そんな小十郎を見ない振りをしては最後に政宗を見た。

「政宗様も、お変わりないようで」

は、一言も発さないどころか興味なさげに外を眺める政宗に頭を下げた。

「お前も変わらず辛気臭いな」

あっ、とは思った。 思わず許される前に顔を上げていた。 言葉は変わらず辛辣なのだが、存外にその物言いが柔らかかったことに驚いたからだ。 政宗はの方は見ていなかったが、外を眺めるその横顔にいつもの険はなかった。

「何呆けてるんだお前」

呆れたような政宗の声にはっとしたは慌てて頭を下げなおし、早まる鼓動を宥める。 いつにない優しげな顔だった。 それが自分に向いていなくても、は驚くほど政宗に惹かれた。 憎みあっていたときよりも意識を奪われた。

「いえ、あの、お引止めして申し訳ありませんでした」

小十郎との賭けはの勝ちだ。 当たり前だが、政宗がを訪ねてくることなどなかった。 だからはもう言うことはないと思っていた。 なのに、どうして今更になってそんな顔して見せるのだろう。 は切なくなった。 同時に、ようやく出家する痛みが分かった。

この人とと二度と会えなくなるという、その痛みがやっとに届いた。 どうして今更こんな顔して見せてくれるのだろう。 投げやりに諦められそうだった思いを、伝えたくなってしまう。 下を向いているの目からは重力に逆らえない涙があふれ出そうになる。

は出家することを風の噂に政宗に知られたくなかった。 それをあてつけがましいと感じるのはむしろ傲慢で、言うなら自分の口でさよならを言いたかった。

「政宗様」

思い返してみれば、挨拶ではない言葉での方から政宗に声を掛けたことなどなかったように思った。 いつも怯えてばかりで、は政宗からの言葉をずっと待っているだけだった。 それがよくなかったのかもしれない。

もっと、歩み寄る努力をするべきだったのかもしれない。 そうすれば、もっと早くこの顔に気づけたかもしれないのに。 は気づくのが遅すぎた。 今更そう思っても、捩れてしまったものはもう戻すことはできない。

「さようなら」

何があったのかは分からないけれど、柔らかくなった政宗にはもう十分だと思えた。 政宗を温かく包んでくれる人が現れたのかもしれない。 それでもいいと思った。 きっとはあまりにも長い間政宗を愛していたから、その愛情には母親のそれに似た愛が多分に含まれてるのだ。 は初めて、目の前の人を素直に愛しいと感じた。

ずっと愛憎が紙一重に入れ替わる彼岸のような場所にずっと留まっていたから、ふっと心が軽く温かくなるのを感じた。 出来ればのことを見て欲しかったけれど、「憎い」とまで言ったに柔らかな顔で接することができるのなら、 きっともうこの方は小さな梵天丸様ではない。

過剰な愛も、過剰な憎しみも、きっと少しずつ、溶けていく。 雪が溶けて春になるように、少しずつわだかまりは消えていくだろう。 結局好きとは言えなかったので、代わりにさよならを。 きっと意味が伝わるのは半月先の自己満足のさよならだけれど、あてつけではなく本当に心から「さよなら」とは思った。

多分、は政宗が幸せなら幸せだと感じられる。 そう思える自分を見つけることが出来て、は満足に微笑んでいた。


(2008/04/07)