上手く眠れなかったので、は手紙を書いていた。 外は静かだった。昼間の強さが嘘の様に風は凪いでいた。 手紙は成実に宛てたものだ。 挨拶を欠く非礼を詫びると共に、なぜ挨拶に行くことができなかったのかを認めた。 成実は多分、が政宗を好いていたことを知っている。 冗談を混じらせながら、いつものことを気遣ってくれた。 そんな成実にも会えなくなることは悲しかった。 春の夜は気持ちをざわつかせる何かがあった。 墨を落としたような隙のない闇でも、温み始めた空気が妙な気分を抱かせる。 は書き終えて筆を置き、予感に駆られて障子を開けるために立ち上がった。 眠れなかったのも本当はこの予感のせいだ。 馬鹿げた妄想だと自分を笑いながらも、そうせずにはいられなかった。 「いつから、おいでになられていたのですか?」 「お前がとっとと出て来なかったからだろ。寒いんだよ」 政宗は当たり前のように、庭先に立っていた。 まるでいつかのように、政宗は詰まらなそうな顔をしてを見上げた。 「いつまで見下ろしてる気だ。降りてこい」 は羽織を肩に掛けて、縁側から庭へ降りた。 確かにまだ肌寒い。人肌が恋しくなる程度には、寒い。 「どうされたんですか。こんな夜中に」 は呆れた風を装いながら、政宗の前に立った。春は気配だけで、その姿を見せない。 桜は蕾。空気は冷たく、風は硬い。 「白々しい。お前が聞くのか?」 は頭振った。政宗と駆け引きなど出来ない。 「出家することに致しました」 も単刀直入に言う。それ以外に何を言えばいいのか分からなかった。 「結構な挨拶だったな」 「何と申し上げれば分かりませんでした。申し訳ありません」 は政宗の強い視線に晒されて身体が竦む。必要以上の言葉が出てこない。 言いたいのはこんなことではないのに。無表情のまま二人は見詰め合った。 「いつするんだ、出家」 「そこの桜が咲く前には」 は庭の真ん中に根を下ろす桜を指した。膨らみ始めた蕾は柔らかくなり始めている。 咲くのは時間の問題だ。それ以上二人は言葉をなくしてぼんやりと枝の桜を眺めた。 駆け引きが出来ないなんていうのは嘘だ。どちらも決定的な一言を相手の口から引きずり出そうとしている。 「政宗様は、まだわたくしのことが憎いですか」 は桜の幹に手を当てながら聞いた。幹は硬いけれど柔らかい。 幼い頃はよくこの木の下を走り回って遊んだものだ。 「信じてんのか、俺がお前のこと憎んでるって」 「今日の昼前までは信じておりました」 は笑った。 「今日廊下でお会いしたとき、とても柔らかいお顔をされていました。わたくしは、そのお顔が拝見出来てとても嬉しかったです」 政宗は何ともいえない表情でを見下ろした。ひょっとして困っているのだろうか。迷子の子供のような途方に暮れた顔だった。 「餓鬼の頃から、お前のことがどうしても気に食わなかった」 それっきり政宗は何も言わず所在なさげにの前に立っていた。 「本当に出家するのか?」 空には丸い月。 「決めたことです」 濃厚な闇。 「どうしても、出家するのか?」 春の気配。 「もう挨拶回りも済んでおります」 月に星。 「どうしても行くのか?」 花に太陽。 「どうして、行くなとおっしゃってくれないのですか!」 あなたに私。そう言ってしまいそうになるほどに。どうして、今更。 「好きだと言ったら、お前は行くのをやめるのか!!」 遠回りに確信的な言葉は避けていては何一つ進めることは出来ない。 「お前のこと、憎くて憎くてしょうがなかった。いっそ殺したいぐらいお前のことが嫌いだった。 お前は、例え泥まみれの糞まみれの餓鬼でも抱き締めてやれるだろう。 お前は俺のような餓鬼でも、好きになれるだろう。 俺はそういうお前が憎くて憎くて仕方がなかった。本気でお前のことが憎かった!」 『あの方は、人など愛したくないのです』 小十郎の言葉が蘇る。人を愛することも、人に愛されることにも政宗は素地がなかった。 けれどそれ以上に政宗は自分自身のことを愛することが出来ない。 「どうしてお前なんだよ。俺は愛情なんか欲しくはないのに……」 それでも、どうしようもなく持ってしまうのが愛情なのだ。それが愛情なのだと気づかなくてもこの人はそれを持ってしまった。 の胸は塞がれる。沢山の思いが溢れて一杯になる。 「政宗様。わたくし、やはり出家します」 は政宗の背中を抱いた。頼もしい武人の背中だった。 「でもそれは、50先にします。政宗様が許してくださるなら、どうか――」 は教えたかった。愛情が何なのかを。気づき始めたこの人を置いて出家などできない。 それが振りきらなくてはならない煩悩であっても。 きっと愛情を許せるようになれば、政宗は今までこぼしてきたものを取り戻せる。 取り戻せなくても、それに代わる何かを得ることができる。 例えば愛情の薄い母親。例えば日和見の家臣。例えば信じることを許さないこの戦乱の世。 「側にいろ」 短く政宗は言った。はそれに声を出すことも出来ずただこくりと頷いた。 ■□■ 明るい陽光に眠気を誘われる春の昼下がり。小十郎は執務の休憩がてらに満開に咲いた桜の下にいた。 立派な桜だ。ほのかな甘い香りが小十郎の鼻をついた。 「小十郎」 呼ばれて振り返るとがいた。はこのほど、政宗の側室に召し上げられた。この頃のはよく笑う。 そして政宗もよく笑うようになった。 「様も花見ですか?」 小十郎は無邪気な顔で花を見上げるに聞いた。 「ちょっと政宗様にご報告したいことがあって」 政宗の居室へ向かうところなのだとは言った。何かあったのですかと小十郎が水を向けると、はくすりと笑った。 少女のようだった。 「ややが出来たの」 ざっと、強く風が吹いた。翻る花弁の薄紅は空へ吸い込まれる。 は嬉しそうに言った。小十郎も、思わずほうっと息を飲んだ。 二人は目を合わせて照れ笑いをした。面映さがくすぐったい幸せを感じさせる。 「ねえ小十郎。わたくし、この子がどんな不器量でもどんな不具でも一等に愛するわ」 は掌に落ちた花弁を握った。幸せの報告にしては硬い声。 小十郎はその硬さの意味が分からず彼女を見下ろした。 「母親がどれほど子のことを愛しているのか、どれだけ愛せるのかあの方に教えてさしあげたいの」 真剣な声が小十郎の胸を打った。は取り戻させようとしていた。 政宗が得るはずだったものを一つずつその手に返そうとしていた。 多くのものを得たことと、得られなかったものは決して等価にはできない。そのことを彼女はよく知っていた。 政宗が得られなかった一番のものは、母の愛情だった。 「この子が出来てくれたことがとても嬉しいわ」 それはいくつもの意味を持った小さな命。平行だった二人の道を一本にしようとしている小さな灯り。 「政宗様は喜んでくださるかしら」 は聞いた。愛おしげに自らの腹を撫でながら。 「それはもう。必ず」 小十郎の強い肯定に、雨のような花吹雪の中では母の顔で笑った。けれど。 「やはり業が深いわね。やはりわたくしは、あの方を振りきれない」 長い道のりがほんの少し淋しげに彼女を微笑ませる。 たくさんのことが二人の間にはあった。これからもたくさんのことがあるだろう。 そうしたときに二人を救うのは、芽生えた命なのかもしれない。 「どうか、幸せになってください」 小十郎は深く頭を下げた。それ以上に言うべき言葉が見つからない。 優しい花の雨がいつまでも二人に降り注ぐことを祈るばかりだ。それに笑顔で応えながら、 かつての少女は、優しく腹を撫でて愛する人の元へ向かった。 -了-
(2008/04/08) |