生きているもののうちでは人間がいちばん嫌いだった。 「もう決めてしまったのですね」 風の強い日。 二人が向き合っていたのは風が春を連れてきた日の昼下がりだった。 「不思議に心が揺らがないの。そのことが、少し怖い」 は向き合った喜多に言った。 まるで心が迷わない不安。 見ない振りをしているものの存在は知っているけれど、 それをいつまでも引きずっていてはどこにも行けないと冬の間じっと考えた。 不安がないのは未練がないということなのだろうか。 心が騒がないのは気持ちが死に始めたからだろうか。 「お別れは済ませましたか」 そんなに喜多は何も言わなかった。 問い質すことも、叱ることも、何も。 それはいつかの幼いときを思い出させて、は知らず知らずのうちに微笑んでいた。 「喜多が最後よ。本当に、今まで世話を掛けました」 は手をついて喜多に頭を下げた。 姉と慕ったこの人とも、もう会うことはない。そう思うと、自然と目の奥が狭くなる。 出家することを決めた。父にも、親しい友人にも、別れを告げた。出家することに迷いはない。 けれどそのこととは別に耐え難い淋しさがの胸に迫る。 「小十郎との賭けは、もういいのかしら」 喜多の声には、手こそ出さないにしろが幼いころ頭を撫でてくれた優しさがあった。 「長くは待てない、と言ってあるの。ちょうどいい区切りのときよ」 は膝上できつく握った指を解いた。 張り詰めた空気が和らぐのを感じた。 は問われなからこそ、責められているのかと感じていたから。 「政宗様にはお別れをおっしゃいましたか」 自身には何も問わない。 ただ事実を尋ねる。厳しさとも、優しさともいえない微妙な距離がの決心を揺るがせる。 「言えないわ」 に迷いはなかった。 けれど後ろめたい気持ちは巣食っていた。 懺悔、などするべきではない。 告げなくてはいけないことを捨て置いたまま逃げようとするならば。 逃げるならそれと引き換えに一生後悔をし続けなければならない。 それが出家を決めたときのが自身に課した掟だ。それが早くも破られる。 は居た堪れなくなって顔を伏せた。唇を噛んでじっと堪える。降り積もる沈黙。 「わたくしはあの方に、何も言えない……」 搾り出せたのはそれだけだった。 もう口汚く罵られることもない。 擦れ違っても顔も合わせて貰えない。 仕方ない場合に交わす言葉はおざなりなことばかり。 埋め方の分からない溝に は諦めのときが来たのだと思った。長い十一年が、ようやく終わろうとしていた。
(2008/04/05)
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