「本当に、それでお忘れになれるのですか」 言い募る小十郎には困ったように苦笑した。 「忘れられても、忘れられなくとも、本当はもうどちらでもいいの」 薄の穂を散らしながら、は煮詰まった思いを形にしていく。 泥のように輪郭の曖昧な激情は、はっきりとした形にすればするほどの苛立ちを強めていく。 「あの方にお会いしたくないの。もう、あの方の前で醜態を晒さない自信はないわ」 危うさに揺れる目が小十郎を射すくめる。この少女は自分が今どんな顔をしているのか知っているのだろうかと、小十郎は思わずたじろいた。 嫌な動悸がしていた。戦場で命のやりとりをする武人の小十郎が、たった一人の少女の迫力に飲まれかけていた。 「小十郎だった見たくはないでしょう。わたくし、次何かおっしゃられたら自分が何をしでかすか自信がないわ」 冷たい秋風が吹く。それは身体よりも心の熱を奪っていく。風にさらされて初めて、小十郎は自分が汗をかいていることを知った。 「あまり不穏なことをおっしゃるな。小十郎は、様に縄をかけるような真似はしたくありません」 伊達家に対する不穏な言質ひとつ、聞き逃してはならないのが守役であり家臣の筆頭である小十郎の役目だ。 そのことを十分に承知してるは、これ以上ない毒で小十郎を振り払おうとする。 「気が合わないわね。わたくしは、縄をかけられるなら小十郎でないと嫌だわ」 更に嫌味なほど美しく笑って、は薄を投げ捨てた。相手に毒を与えるやり方をに教えたのは他ならない政宗その人で、 その毒ゆえに彼女は彼の人から離れようとしている。 「ねえ一層縄にかけてくれないかしら。みっともなく、これ以上ないぐらい哀れな姿で市中を引き回してくださらない? そして火にかけてくださればいいわ。 勿論政宗様を連れて来て頂戴ね。そこで「お慕いしています」なんて叫んだらあの方どんな顔されるかしら?」 ふふふと、大人の色をした笑い声では小十郎を上目遣いに見る。匂い立つ艶やかな色が小十郎の背筋をぞくりと震わせる。 ここにいる女は、一体誰だ。 「なんてね」 いくらの時間が流れたか、恐らくほんの一瞬のことだっただろう。呼吸も忘れていた小十郎に正気を思い出させたのは、ちゃめっけたっぷりのの声だ。 「ごめんなさい。冗談よ小十郎」 本気にしないで頂戴と、ころころと笑う笑顔は幼子が悪戯に成功したときと同じ無邪気さに彩られているが、それはもう無邪気さを作ることが出来る大人の仮面だ。 本気になれば小十郎の思う壺だと分かったのだろうか。ひょっとしたら、小十郎への手土産代わりの本音だったのか。 何にしろは冗談にして終わらせる気だということだけははっきりしていた。冷静になられては駄目だ。小十郎は拳を握ってもう一度に本音を話させようとする。 「様が、ご出家されるという噂をお聞きしております。政宗様は、おそらくまだご存知ではありません」 「政宗様がご存知ないというのは本当だと思うわ。もし知ってらっしゃったら、わたくしに嫌味の一つでも言いに来られる筈ですから。それともわたくしなどもう飽きられたのかしら?」 自虐に笑うは、自分でつけた傷をこれ見よがしに小十郎に見せ付ける。 「お願いですから、あの方を諦めないでください」 それは考えて言った言葉ではなかった。 ひゅっと、息を吸う音がやけに大きく聞こえる。 それは小十郎がたじろいた音だろうか、の導火線に火がついた音だろうか。 小十郎には分からなかった。 「それをあなたが言う?」 に表情はなかった。 呟くような小さな声だった。 苛立ち、恨み言、吐き捨てる。 に渦巻く真っ黒な、真っ黒な感情。 「だって、政宗様はいつもあなたを見ていたわ。いつだってあなたを仰ぎ見て、わたくしを笑ったわ。 ねえ、わたくしはあなたとも会いたくないの。いつだって私を苛立たせるのはあなただって同じなのよ」 子供の仕草のように袖先を強く握り締めて、目には涙を一杯に溜めて――それを一滴もこぼさずに、は小十郎に声を叩きつける。 「ねえ、お願いだからこれ以上惨めにしないで頂戴。あなたのことまで嫌いにならせないで………」 さわさわと冷たく、風が小十郎の頬を撫でる。懇願する彼女は痛ましかった。 かつて彼女は、花のように笑う少女であった。 かつて小十郎は、政宗に「どうしたって諦められない人が現れればいい」と願った。 それはこんな形をしていただろうか。 小十郎が願ったのは、軋んだ胸がそのまま潰れてしまいそうなこんな擦り切れそうな関係だっただろうか。 「お願いですから、あの方を諦めないでください」 小十郎は懇願した。 痛ましくても見苦しくても、ここで追いすがらなければこぼれるばかりだ。 過ぎた真似であることは承知済みだ。 それでも言わなければ、彼の人に欠片も気持ちがないとに誤解させたままであるのは小十郎には耐えられなかった。 「政宗様が、様にだけ辛く当たられる理由をお考えになられたことはありますか」 はいい加減呆れたように嘆息し、頭を下げる小十郎の目線に揃えて膝を折る。 「あの方を愛している人なんて、星の数ほどいるじゃないの。もう昔とは違うわ。わたくし一人などあの方にとっては取るに足らないでしょう?」 の言い方はぐずる幼子をあやすそれだった。憎しみを内に抱え込んでいてもとても優しく、は笑っていた。 どれだけ黒く塗りつぶされても、彼女はこの笑みを決して忘れない。 政宗はそれを試していたのかもしれないと、小十郎は急に思った。 恐らく、そんな彼女の笑みに誰より惹かれていたのは政宗だ。深い暗闇の底にいた彼には、眩しすぎる光だったに違いない。 彼女自身が見えないほど、鮮烈に見えたに違いない。だから、きっと。 「あの方は、人など愛したくないのです」 小十郎の擦れた声は、ちゃんとに届いているだろうか。 「あの方は、人など愛したくないのです」 自身に言い聞かせるように小十郎は繰り返す。 例えば実の母。例えば日和見の家臣たち。例えば信じることをさせないこの戦乱の世。 用心深さと思慮深さはこの上ない武器となるが、歪みも孕むそれらは人生を不幸にしかしない。 「様は、政宗様が美術品の収集をなぜされるのかご存知ですか」 は頭振る。 「『美しい』からです。沢山のものを取りこぼして生きてこられらあの方は、理由がなければ、愛していると言えないのです」 それはなんと可哀相な子供だろう。 その隙間を埋めることは、家臣でしかない小十郎には出来ない。 「ただ愛情だけを理由に心を差し出すには、あの方は辛い時期が長すぎたのです」 けれどその心の在りようを常に追うことは出来た。 その目線が何を追っていたのかは、きっと政宗本人よりもよく知っていた。 「ねえ、小十郎。おかしいわよ。だって、それじゃあまるで―――」 は、いつだって心を差し出す前に差し出そうとする手を弾かれていた。 「愛情」を受け取ることを政宗は恐れていた。 「きっと様とお言葉を交わす前から。あの頃の政宗様が、自ら見知らぬ誰かと話すことなど考えられなかった。 どうすればいいのか分からなかったのかもしれません。本能的に、認めることを拒んだのかもしれません」 雲の流れる高い空がわだかまりを吸い込んで溶かしていけばいい。 小十郎は柄にもなくそう思う。 小十郎は沈黙するを待った。大人の女の憎しみに揺れる彼女ではなく、真っ直ぐな恋に揺れる少女の彼女を待った。 「では小十郎。賭けをしましょう」 は小十郎の目を覗き込む。 「もしあの方がわたくしを訪ねて来られたら、わたくしは一生に一度だけ、この気持ちをお伝え致しましょう」 秋風が渡る。 「殿にご足労願うなんて、たかだか家臣の娘が不遜ですわよね」 はくすくすと笑って。 「だからこのお話は、わたくしとあなたとの秘密です」 は人差し指を唇につけて微笑む。 「でも、それほど長くは待てないわ。もう分かったでしょう?わたくし、おかしいのよ。自分でも承知してるわ。 本当に何かことを起こす前に、いなくなった方がいいと思うのよ」
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