02.神と人の間


梵天丸様とお目通りが叶ってから一年が経った。 けれどこの一年、が梵天丸様のお目にかかる機会も、お言葉を交わすこともなかった。 それは梵天丸様が離れにお住まいになっているためと、自身が梵天丸様に近づけなかったためだ。 だがはお屋敷、お庭の端々でそのお姿を拝見する度に、そっとご様子を窺った。 目が合うことは一度もなかった。 梵天丸様の目はいつも小十郎に向けられていた。 梵天丸様のお側には、いつも小十郎がいた。



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抜けるような秋空だった。 頬に触る空気は適度に冷たく、柔らかく、は深呼吸をしながらお屋敷の庭を散策した。

「庭の花なら好きなだけ生けるがよい」という輝宗様の鷹揚なお許しに、は喜んで庭へ向かった。 花は好きだ。 見ているだけでも、生けることも、花があるだけでは満たされる。 萩、女郎花、藤袴、菊、と咲き誇る花々からはまず竜胆を手折った。 濃い紫の竜胆が咲き誇る中、たった一輪淡い藤色で花弁を揺らす竜胆は少し寂しげで、可憐だった。

「生けるのですか?」

その声に弾かれて振り向くと、の背後には稽古上がりのなのだろう。道着を着た小十郎が立っていた。 その隣には勿論梵天丸様もいらっしゃった。 はほんの少し、強張った。

「お屋形様に、お許しを頂いたので」
「そうですか。ではこの小十郎、後ほど拝見しにお伺いしてもよろしいか?」

小十郎はの抱く竜胆を目にして目を細めた。 無骨な面からは想像しにくいが、この小十郎は武・智だけでなく、風流にも通じ特に笛をよくやると一門の中でも名高かった。 は小十郎の笛を聞いたことはなかったが、そんな風雅に通じた小十郎に生けたものを見たいと言われては緊張しない方が無理だ。 けれど、の選んだ竜胆を見る小十郎は感心の目で、この竜胆を選んだことにまずは合格点を貰えたようだ。

「小十郎にそう言われると手が抜けないわね」
「おや、適当になさるおつもりだったんですか?」
「もう小十郎。意地の悪いことを言わないで頂戴」


兄のように慕う小十郎に構ってもらえるのはには嬉しいことで、くすくすと笑いがこぼれる。 だから、その小十郎の隣で梵天丸様が低く笑っておられてことに気づかなかった。

「梵天丸様も、後で拝見しにご一緒いたしましょう」

小十郎は傍らの梵天丸様に言った。 は急にその名を呼ばれて笑顔が張り付く。 それまで一言も口を挟まなかった梵天丸様が薄く笑って何か言いかけたとき。

「小十郎、お屋形様がお呼びですよ」

喜多が屋敷の中から小十郎を呼んだ。 それほど急いだ様子ではないが、何か大切な話があるのだろう。 小十郎は梵天丸様に目線を合わせて暇を告げると喜多を仰ぐ。

「では義姉上、梵天丸様をお願いいたします」
「いいからささっと行け小十郎」

子供扱いされたことに不満なのか、梵天丸様は幾分不機嫌そうに言った。 そんな梵天丸様を一番よく知る喜多はころころと笑うばかりで、梵天丸様の言葉遣いを戒めようとする小十郎を遮って黙らせてしまう。

「心配しなくても小十郎、わたくしも同席するよう言いつかっております。様」

突然名前を呼ばれてはびくりとした。

「少しの間でございます。梵天丸様のお相手をお願いいたします」

それだけ言うと、喜多はの「いい」も「駄目」も聞かず足早に小十郎を連れて行ってしまった。 置いてきぼりにされ、何をもっての「お相手」なのかと困っていると梵天丸様は肩を竦めて嘆息した。

「あれで人に慣れさせようとしいるのだから、小十郎もまめなことだ」

突然の冷や水だった。 がうろたえていると梵天丸様はくすりと笑った。

言外に、 の生けた花を見たくて言ったのではないと嘲われて、嘲われたことしか分からず頭が真っ白になった。

「この右目はそんなにも恐ろしいか?」

悪意の満ちた声がを弄る。 それだけで、は一年前に引き戻される。 初めてお目通りしたあの狂った夏の日。 の幼い日が、終わりを告げたあの日。 ぞわりと肌が粟立つ。 眩暈が、息が、言葉が、何もかも取り上げられては立ち尽くす。

「恐れていただろう?この池の前で俺を見たとき」

からかう様に楽しげな梵天丸様。 それは虫の肢を毟っていく子供そのもので、毟られているのはだ。 てらてらと反射する池の水が不気味に歪んで、どうしようもない正気がから体温を奪っていく。

「覚えていらっしゃったのですか……」

声が擦れた。 のことなど歯牙にもかけず小十郎と離れへと帰っていった梵天丸様だったので、のことなど認識もされていないと思ってていたのだがそれはは間違いだったようだ。 覚えておられなければいい。 それがの切なる願いだった。 だって許されるはずがない。 恐ろしいと思い、引いてしまったことなど。 ましてそれが主君となられる方などと。

「醜かったか?気味が悪いか?」

腕を組んで、尊大に、毒気を含んだ満面の笑がの逃げ道を塞でいく。 世界は、この方を中心に造られているのではないかという錯覚。 見えない囲いには完全に追い詰められる。

「わ、たし、は……」

一年前のあの日。 あまりのの怯えように、さすがに喜多も叱責しかねたようだった。 ただ髪を撫でて、の緊張を解そうとしていた。 その間もの心臓は休まることを知らない。 見てはいけないものを見てしまった。

の穏やかな日常には存在しなかった激しさに戸惑う以上の恐怖を感じたのだった。 何も映さず、ただ異様に垂れ下がる右目はありていえば死んだそれだ。 異様なだけで何をするわけでもない。 けれど光を宿すその左目は、底を覗かせずがまだ知らないものが吹き溜まる底なしの沼だった。 はそれが恐ろしかった。

「女子供には辛いよなあ」

くつくつと腹を抱えて笑う梵天丸様は気が触れたのかと思われたが、髪の奥に隠れる左目はまったく笑っていなかった。 冷たくを値踏みして、踏みにじる機会をじっと窺っていた。 空が遠い。 過ぎた夏の残影か、蝉までがの耳元では鳴き始めた。 夢と現が曖昧に混ざって揺れる。

「まあどうせ、俺は人じゃない」
『あれは、人ではない』

逆さに重なる声が二つ。 義姫様のそのお言葉はの脳裏にも深く刻まれて、単なる嫌悪以上の感情がを怯ませる。 池の前で頑なに水面を眺めていた梵天丸様をに思い至っては顔を上げるが、の前にあったの暗く歪む左目だけだ。

一年前の夏の日。 喜多は叱責しない代わりに、慰めもしなかった。 また理解を求めようともしなかった。

喜多は恐ろしくないのか?

喉元まで競りあがる思いをはかろうじて飲み下す。
触れれば溶けてしまいそうな赤子のような目で、無感動にを見つめる目。



喜多は恐ろしくないのか?



何度も、側に居ない喜多に聞いた。 齢八つにもなろう方がどうしてそんな目を保ち続けているのかには分からなかった。 それはまるで「人ではない」ようで―――。 はそこでようやく思い当たる。 ああ、恐れだけではなかったのだ梵天丸様への感情は。

「あなたは、人ですか?」

畏れだ。

の耳元でも蝉は鳴くのを止めた。 梵天丸様も笑うのをお止めになられた。

「何を言っているのか分かっているな?」

正面きった讒言かと問われてもは躊躇わなかった。

「その右の御目が光をお捉えになっていた頃も、左の御目は今のようにわたしをお睨みになりましたか?」

義姫様とはまったく逆の意味で、は言った。

ああだって。 隠しようのない悪意を向けられても、は逸らせない。 取り込まれる。 突き放される。 怯む。 畏れる。 それでも残影を追う。 それがのこの一年で、どう仕様もないほど引かれている。

両の目が光を同じように捉えていた頃、その御目は何をどのように見つめていたのだろう。 今は光を失われた右の御目は、左の御目と同じく赤子の純粋さと悪意に滲むだろうか。 およそ人が持つと思われぬ目を両に持っていたために、人となるため天に隻眼とされたのだろうか。 その左の御目に、は「神」と言われるものの目を見た。

右目を失ったことで神となられたのか。
右目を無くしたことで人となられたのか。

にはとても分からないことだった。けれど。

「すぐにお前らは、『神』だ『化け物』だと奉りたて上げたがる」

退屈そうに梵天丸様は鼻を鳴らし、左の御目を瞬かせ垂れ下がる右の御目を触った。

「ただの餓鬼だと思っているのは小十郎だけだな」

底意地悪くにやりと笑って梵天丸様は踵返した。 最後に横っ面を張られたと思ったのは、だけだろうか。 呆然とする反面、ちりちりとする感情がを焼く。 竜胆の茎を握る手には余計な力がこもり、歯を食いしばる顔は歪んでじっと遠のく背中を見続けた。 竜胆ははらりと花弁を落とした。 この日、が花を生けることはなかった。















この日、が帰路に着いたその頃。 城では小十郎が梵天丸様の右の御目を切り落としたと風聞で知った。

「わたしがお嫌いなんですね」

右目を完全に捨てておしまいになった今、梵天丸様は何者となられたのだろうか。 半分の冷静な意識。

「小十郎なら、よろしいんですね」

強く着物を握り込んでも塞き止められなさそうにないはっきりとした形になった激情。 半分の意識は歪んだ笑いに塗りつぶされる。

あの狂った夏の日に植えつけられた感情が黒く黒く成長していく。 掌に納まらないそれは、単純で美しいの世界を少しずつ狂わせていく。

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(2007/8/14)