「。これから父上はお屋形様と大切なお話をするから、お前は少し外で遊んできなさい」 そう言われた瞬間、は思わず顔を顰めてしまった。 外では蝉が狂ったように鳴き、手水鉢の水は目に見えて干上がっていく。 太陽は刺すように降り注ぎ、淀んだ空気は息苦しさを増させていた。 この室内でも汗が止まらない暑さだというのに、外へとは。 いつもは聞き分けよく肯くであったが、 こんな暑さの日に外に出ろとはいくらなんでも父上は酷すぎる。 内心でそう思いながらも、は暇の挨拶をして部屋を出たのだった。 廊下を渡りながら、は見知った顔がないかと探していた。 構ってくれる人がいればいいのだが、生憎とどの女中も忙しげで遊びを強請るのは気が引けた。 (本当に外で遊ばなければいけないのかしら) この暑さでなければ、は庭で一人蝶を追うことも花を見ることも苦ではなかった。 しかしこの陽射しではさすがに気が滅入る。 どうしようかとあれこれ思案していると、何事か言い争う声をは聞いた。 そのまま廊下を真っ直ぐに進むと、庭へ降りる階段先で義姫様と片倉小十郎が何か言い合っていた。 言い争い、といっても輝宗様のご正室と一家臣とではひたすらに小十郎が頭を低くし、 それでも食い下がって何事か進言しているというの正しいのだが、義姫様を小十郎が責めているようだった。 の立ち場所からは何を言い争っているのかまでは聞き取れないが、 が聞いていい話ではないことはすぐに分かった。 慌てて来た道を引き返そうとしたとき。 「あれは、人ではない」 はっきりと苛立った棘のある声はの耳にも届いた。 お気の強い義姫様は沸点が頂点に達したのだろう。 またうんざりと言う顔を物ともせず、繰り返し進言する小十郎に我慢ならなかったに違いない。 「お東様」 今度ばかりは小十郎も咎める声を隠そうとはしなかった。 小十郎はなおも追い縋ろうとしたが、義姫様はそう吐き捨てると踵返してしまった。 御付の女中が慌ててその後を追う。 それを見送った小十郎は小さくため息をつきこめかみに手をあてた。 小十郎は辛そうだった。 「様」 名前を呼ばれたことにはびくりとした。 完全に立ち去る機会を失っていたは、優しい表情を取り戻した小十郎に頭を下げることしか出来なかった。 「様。お久しゅうございます」 小十郎は腰を落としてに笑いかけた。 先ほどまでも険しい顔はあっという間に姿を消す。 は申し訳なさで、まともに小十郎の目を見られなかった。 「あの、小十郎。ごめんなさい」 は着物をぎゅっと掴んで謝った。 人の話を盗み聞きしない。 それは日頃父に言い聞かされている礼儀の一つだ。 小十郎は目を瞬かせて、の頭を撫でた。 「お謝りに頂くことはありませんよ。今日はどうされたのですか?」 頭を上げるよう小十郎に言われて、はやっと顔を上げることが出来た。 「父上はお屋形様とお話をされているの」 それだけで小十郎は察して、 「左様でございますか。では、涼みに参りましょう。 ここは少々暑うございますから」 との前に立った。 「梵天丸様のお側にいなくていいの?」 拙くは尋ねた。 小十郎が梵天丸様の守役で、武に学にとお教えしていることはでも知っていた。 恐れ多くて自ら尋ねることは出来なかったが、時折小十郎のこぼす梵天丸様の様子を聞けるのが楽しみであった。 「ご心配には及びません。今は某の義姉がお側に控えておりますゆえ」 それならばとは喜んで小十郎の後についていった。 守役の小十郎はいつも忙しくしている。 こうして構ってもらえることがは嬉しかった。 離れに、と導かれは庭をぺたぺたと歩いた。 着物が重く、目の前がゆらゆらと陽炎に揺れる。 木陰は一つとしてなく、立ち上る熱気にはむせた。 頬を伝う汗を拭ったとき、は池の前に佇んでいる子供の姿を見た。 と変わらない背の子供だった。 照りつける太陽を無視してじっと水面を睨んで、その横顔は汗一つかいていなかった。 城内にいる、と変わらない年嵩の子供など一人しか考えられない。 小十郎が、すぐに声を掛けに行く。 「このような炎天下で何をなさっているのですか。すぐにお部屋へお戻りください。義姉上はどうされたのですか」 矢継ぎ早にいう小十郎は、自身の身体で影をつくってその子供を部屋へと返そうとする。 その様子を見ながら、は心臓が跳ねたのが分かった。 お声を掛けるのは非礼にあたらないだろうか。 でもご挨拶申し上げるのは家臣の礼儀だ。 躊躇いながらも、歩を一歩その方の側へ踏み出した。 身分不相応とはいえ、何度も何度も話に聞いていた方。 登城するたびに、一目でもお目にかかれないだろうかと期待をしない日はなかった。 頭を低くしようとした、その瞬間。 は射抜かれたように動けなくなった。 その目がを見たから。 気を狂わせる暑さが、の感覚をおかしくする。 季節外れの悪寒。 世界が塗りつぶされる瞬間。 は気づかないうちに後ずさっていた。 「梵天丸様」 息を弾ませた喜多がの隣をすり抜ける。 その様子から、梵天丸様が喜多に断りなく部屋を抜け出したのであるということが知れた。 ああなんというお人だろう。 は膝ががくがくと震えるのを必死で抑えようとする。 疱瘡で右の御目が光を失い、左の御目だけで世界を見つめられているのだということはも知っていた。 そのことが原因で義姫様に遠ざけられているのだということも。 知っていたけれど。 だらりと垂れ下がった右の目。 無感情にを見る左の目。 一瞥しただけでその目はすぐにから逸らされ、梵天丸様は小十郎に促されるまま部屋へと戻る。 はお声一つ掛けられず立ち尽くした。 止まっていた汗がどっと吹き出る。 蝉だけが喧しかった。 真っ白に塗りつぶされた視界に呆然と佇んでいると、喜多が気遣わしげにに近寄り日陰へと導こうとする。 は、喜多にしがみついた。 「喜多。恐ろしい」 かろうじてはそれだけ呟いた。 このときのは、何が恐ろしいのか喜多に伝えることもままならないほど幼かった。 「左の御目が、わたしを睨んでいたわ」 無意識にこぼしたこれだけが、このときのに理解しうるすべてだった。 は瞼に焼きついた目を振り払うように、掴んだ喜多の着物を握り直した。
(2007/8/1) |