0.序





八歳の夏の日まで、は主家の嫡子梵天丸様とは一度も面識はなかった。 ご当人がひきこもりがちだとも、義姫様が外に出したがらなかったとも言われていた。 いずれにせよ、の面前はおろかごく限られた忠臣の前、世話役の女中でさえ、そのお姿に接する者はごく少数であったらしい。 幼い梵天丸様の御身に起こったご不幸を知らない者は、城内には一人としていない。 自身、父に何度も言い聞かせられていたのであたかも疱瘡に苦しむ梵天丸様のお側に控えていたと錯覚してしまうほどであった。

いかにお痛ましいか、いかにお労しいか、決して大きな声では言わなかったが、いかにお東の方に冷たくあたられているか。 それは寝物語のよう毎晩と聞かされたものであった。 父は梵天丸様の境遇に深い同情を寄せながらも、しかしその才気の利発さを見抜き率先して後ろ立てを買って出ていたらしい。 女の身であっても将来梵天丸様のお力になれるようしっかり勉学に励むように、とは当時の父の口癖であった。

戦況混乱の奥州の中で、の家もまたその覇権を争っていたがやがて伊達家に破れその軍門に下ることとなった。 は物心もつかぬ数え年一歳のときのことである。 かねてから父は敵ながら天晴れと伊達家を高く買っており、 勝ちにつくなら伊達家であるとそうそうに城主であることに見切りをつけたと豪快に笑ってみせたらしいが、 さほどの代を重ねた家でもなく、もともと文人肌の人であったため、と重ねる訳は表層に過ぎず、 この乱世で民を守るには己の才覚は不足であると悟ったがための恭順であったらしい。

そうした父の実直な人柄に、また同じく文人肌であった輝宗様とは主と家臣とはいえすぐに気安い間柄となったらしい。 やがて父は伊達家の忠臣と数えられるようになり、頻繁に御前に直参するようになるとを連れて登城するようになった。 礼儀見習いにと連れて来られるのは名目であり、ご息女はなかった輝宗様たっての希望ではよく珍しい菓子を頂戴したものだった。 その間、同齢であるという梵天丸様とはお顔を合わせることもなければ、お声すら聞いたことはなかった。

が男子であれば、梵天丸の教育学友として最適だったのだが」

とは輝宗様のお言葉で、父はそのことにいたく感激したのだと後年しきりにに言ってきかせたものであった。

だからあの暑い日。 城へ登城していたことは取り立てて稀有なことではなく、ある意味では出会うべくして出会ったのだと今なら思うのだ。 八歳の夏の日。 狂った暑さの成れの果て。

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(2007/7/27)

※バサラと史実と妄想のチャンポンで推して参る。