祈りの時代は確かにあった



「ねえブルー、何を読んでいるの?」

ジョミーは囁くように聞いた。 頁を捲る音でさえ静寂を破る音となりうるこの青の間は、まるで音を失ったブルーの世界そのものだった。

「僕らで言えば、人間もミュウもすべてのものを救ってくれる神様の話だよ」

ブルーは微笑んで頁を捲る手を止めた。

美しい手だ。 多くのものを守って、多くのものを薙ぎ払って来た手。 奇麗なだけの手ではないから皆が信頼を寄せる。 奇麗なだけの手ではないからこの人は淡くしか笑わない。 お話をねだる子供のようにブルーの枕元で膝立ちをしていたジョミーは、頬をシーツに落として目を閉じた。 床の冷たさに膝は冷えていくが、今のジョミーには有難かった。

「そんな神様がいるの?」
「気の遠くなるような昔はね、信じられないぐらい沢山の人が信じていたんだよ」

ブルーは話しながら金色の髪を梳く。 さらさらと流れるそれは惜しみなく降り注ぐ太陽の光。 眩しさに目を細めても決して逸らすことの出来ない、「希望」と同じ色をしている。

「それは300年よりも昔?」

ジョミーがくすくす笑いながら言うので、ブルーも思わず苦笑を漏らす。 300年も生きている人に気の遠くなる昔の話をされてしまっては、たった14年しか生きていないジョミーにはお手上げだ。

「すべての人間がまだ地球に住んでいた頃だよ」
「じゃあこの本はブルーよりずっとお年寄りかもしれないんだね」

冗談を言うとジョミーは髪を引っ張られた。 こうしてふざけ合える時間がジョミーは嬉しい。 ブルーからもとても柔らかい思念が滲み出ている。 ジョミーはそっとブルーの膝の上に手を伸ばした。

「僕も見ていい?」
「言葉はとても古いよ」

顔を上げたジョミーが恐る恐る手に取ったその本は、表紙はぼろぼろに擦り切れていて、中のインクは擦れて読みづらく、 頁は癖がついてしまっていて大人しく閉じられようとはしない。 ブルーが300年間読み続けてこうなったというよりも、沢山の人の手を鳥のように渡って、 今はブルーの手の中でで羽を休めている。 そんなことを思わせる年老いた本だった。

「そうだよ。僕がこの本を手に入れたのはほんの百年前だ」
「もう、勝手に読まないでください!」
「全部漏れてるよジョミー。君は一つのことに夢中になると他がおろそかになるから気をつけた方がいい」

こんなときまでソルジャーをやらなくてもいいのにとジョミーが頬を膨らませると、君の世話が出来るのが嬉しいのだとブルーは笑う。 実際ジョミーの手に納まるこの本は、角がすっかり丸くなりどことなく温かくて、人の手によく馴染む。

「優しい本ですね」

ジョミーには一文字も読めないが、この本の持つ性格は纏う空気でそう感じられた。 ブルーはそんなジョミーに目を細めたが、同時にきつく瞳の光を絞る。

「でもね、この本の教えを巡って沢山の人々が殺しあったんだよ」

それがつい昨日の痛みのようにブルーは眉間に皺をつくった。 大昔の人類の殺し合いは、そのまま彼の古い傷に行き当たるのだろう。 想像することしか出来ないジョミーは、出来るだけ慎重にその傷に触れた。

「みんなを救ってくれる神様なのに?」
「みんなを救ってくれるから、だったのかもしれないね」

ジョミーが腑に落ちない顔していると、ブルーは一瞬目線を宙で遊ばせてジョミーに語りかける。

「みんながそれぞれ違う考えを持っているとね、一人しかいないはずの神様が色んな風に見えてくるだろう。 そうやってだんだん噛みあわなくなっていって、でも噛みあわないならそれぞれが信じる神様を信じていればいいだ。
でもね、やっぱり人間は互いを排除しあうんだ。それに別の神様を信じている人もいる。そうやって段々色んなものが絡まって、 だんだん何が悪かったのか分からなくなって、争いだけが残るんだ」

「まるで僕らみたいですね」
「もしかしたら、これからの歴史に新しいことはないのかもしれないね」

じっとブルーの話を聞いていたジョミーが漏らした感慨など、ブルーはきっと300年抱え続けていたに違いない。 ソルジャーとしてならば決しておくびにも出さない諦観が、ほんの少しブルーから零れ落ちた。

「やがて人間は宇宙に出た。今僕らの周りにそんな神様はいない。どこで僕らはこの神様を捨ててしまったんだろうね」

些細なものでも、この人が零すものなら受け止められるようになりたいとジョミーは願っている。 寂しく笑わせたくはないと、白すぎる手を握った。

「神様は、きっと地球でしか生られなかったんですよ」

ブルーは瞬きを二度した。 瞬きですらこの人がすると何か深遠な、それこそ神の啓示のようにジョミーには思える。

「きっと僕らが帰るのを待ってくれています」

沢山の人を救うために、きっと。 あなたが今までそうしてきたように。

「人が捨てた神様が大勢眠っている場所なのかもしれないね地球は」

伝わる体温がほんの少し上がったと感じられるのは、どうか気のせいではありませんように。

「この本にはどんなことが書かれているんですか?」

出来るだけ心が伝わるように、決して一人ではないのだと知って貰えるように、ジョミーはブルーの赤い瞳を覗きこむ。

「世界はどうやって生まれたのか、人はどうやって生きていくべきなのか、何を信じればいいのか。 そういうことがこの本には沢山に書いてあるんだ」

それを知って優しく微笑んでくれる、微笑むことのできる圧倒的な生の長さにジョミーは歯噛みする。 早く、この人に追いつきたい。 それを待ってくれるだけの時間がこの人にはあるのだろうか。 そんなジョミーの焦りをも包み込んで、特にここはね、とブルーは一文を指す。

「汝の敵を愛せ。これは言葉だけの意味ではないけれど、ほんの少し僕らが思い出すべき言葉なんだろうね」

ブルーはぎゅっと、重ねられていたジョミーの手を握り返した。

「僕にはまだ難しすぎるよブルー」

だからもっと僕の側で生きて。

「すぐに分かるようになるさ。ジョミーなら大丈夫だ」

今度は頭を撫でてブルーはジョミーを慰める。

「その神様にはどうやったら会えるんですか?」

俯いてジョミーは聞いた。

「祈るんだよジョミー」

幼子をあやすように、ぽんぽんと背中を叩いてくれるブルーは優しすぎて殊更に繊細で、今にも消えてしまいそうで、 ジョミーは強く強く手を握った。

「ねえ、この本なんて言うんですか?」
「聖書、という。その昔、地球で最も読まれていた本だよ」

彼の瞳は宙を仰いだ。そこにはきっと、見たことのない青が映っているのだろう。


2007/10/07