鳥影
薄い硝子戸は飴のように脆く、がたがたと震えて啼いた。
確かに啼いてはいるが、引き戸はぴちりと起ったままである。
硝子だけが赤ん坊がむずがるかに、ぶるぶると焦れていた。
音は影の訪れを指す。
一恵は勘定台の脇に畳んでいた眼鏡を手に取ると、壁の時計を見遣った。
白く汚れた時計は一時二十八分を指していた。
店の前の停留所にバスがごとごととやってきた。
この岬ではバスも自動車も自転車も、一様に荷馬車の如くごとごと走る。
時間に捨てられたように道が塵と土で伸びているせいもある。
けれどそれ以上に、岬はとても狭かったから、野分みたくびゅうびゅう吹き回る必要はどこにもなかった。
一時二十八分は、日に三本目のものだった。
バスは腰の曲がった老女を一人乗せると、ごうんと灰の唸りを上げると鈍い動き出しで行ってしまった。
バスが硝子の枠外へ見えなくなってしまうと、一恵はぞんざいに眼鏡を外して勘定台に貼りついた。
息を吐くと、黒い台がさわわと薄らかに白く湿る。
(いつまで昔の口約束を信じているつもりなのかしら。あの人は、舟に乗って、行ってしまった)
日に一人来るか来ないかの客を相手にした煙草屋を続ける日々に、不安があるのは当たり前だった。
岬はとても美しい。
それでも人は海の彼方へ行ってしまう。
それに、出て行かなくたって人はいなくなる。
岬から音や影がひとつずつなくなっていく。
一恵の男も消えた影のひとつだった。
小さな舟に乗って小さな荷物だけを提げて、海の向こうへ行ってしまった。
黄金の雲が早朝の舟に砂の光を振るうのを、陸から気丈に見送り通すことができたのは、男の言葉が縁だったからだ。
一恵は些細な口約束に人生を縛られていた。
けれど男を信じて従順に縛られ抜いたその日に、きっと喜びはやってくるのではないかという小さな希望が光り続けるから、神様の存在をどうしても願ってしまうのだった。
憐れなくらい滑稽な姿であるほど、きっと神様は見捨てはしないのではないかと、信じるように願っていた。
一日一日の可能性を潰しながら、それでもたったひとつの幻のような希望に取りすがって今自分が生かされていた。
(馬鹿ね)
(どうあったって、暮らしを続けていくよりほか、ないのよ)
考えたとて嘆いたとて、どうせ一恵には舟に乗る勇気などなかった。
だから一恵は毎日岬の日差しに目を覚ます。
湯を沸かして顔を洗って、ジャムのビンを棚から取り出す。
皺のないシャツに袖を通して、庭の木々に水をやる。
庭からは光る海が見える。
遠い水面には小さな漁船の黒い影、人の暮らしの姿がある。
一恵は決まって毎日、噎せ返るほど泣きたい気持ちになる。
「こんにちは」
男はそう言って、いつも鳶色の鳥打帽を脱いで人好きのする笑顔をしてみせる。
帽子を脱いだ頭は髪が寝そべるのか、反対の手で気にするように髪をかく。
その度に長い前髪が細い睫の先を行き来していた。
男は三年前、まるで一恵の男と入れ替わるかのように鞄ひとつでこの岬へやってきた。
あの時も確か、人好きのする顔で「こんにちは」などといって店の戸を開けたのを一恵は覚えていた。
あの時も確か、硝子に映った彼とよく似た形をした影に心が裏切られていったのを一恵は覚えていた。
男はそのまま、何もないこの岬にいついてしまって三年だった。
普段何をして暮らしているのか一恵は知らない。
ただ週に二回三回店にやってくるのを相手するだけの間柄だった。
「今日は暖かいですね」
「そうですね」
「ご覧になりましたか、三好さんのお宅の梅の木。
そろそろやっと開くようですよ。
まだ小さな豆みたいな蕾が殆どですけど、高いところのはほろほろとね。
その周りを四十雀が飛び回ってるんですよ。
いやあ、可愛らしいものですねえ」
「そうですか」
「藤枝さん、梅はあまりお好きじゃないですか」
「別に。そんなことはありません」
「名前に藤の字がつくくらいだものね。藤の花の方が好きなのかな」
あははと無理に笑うようだった。
腑抜けたような骨のない声だった。
「いつものですか」と一恵が口を差し挟むと尚更笑い声は空しく、男は笑い声を止めると、困ったような顔をして「お願いします」と言った。
困った顔だが、やはり笑っていた。
殊更にこの男に冷たく当たる理由など一恵にはなかった。
だものね、なのかな、などと知れた仲のような口を利くのが気にはついたが、男もそのまま敷居を越えてくるような素振りはなかったので、いちいちあげつらって咎めることもなかった。
小抽斗の三段目に並んだ六箱のゴールデンバットはいなくなった男の物だが、他の箱を減らすのはもはやこの男くらいだった。
岬に煙草を飲む人間はいない。
けれどこの男の優しみをはねつけておくことが、岬を去った男への義理立てのように思っていた。
いなくなった男にできる唯一の愛の証明だった。
愛した男は見ていなくとも神様はきっと見ていると、見ているのからきっと男を岬へ還してくれると、誰に心を揺らすこともなく願っていた。
「三百二十円です」
抽斗の一番上から箱を取り出して勘定台に据える。
手に渡すことはない。
そのことに男はやはり何も口答えない。
いつも男は財布を持たず、三百二十円きっかりをズボンのポケットから裸で吐き出す。
今日も腿のポケットを探っている。
探る度に、ちりちりと硬貨が高く啼く。
「藤枝さん。形骸化してしまった習慣はね、死んでいるのと同じなんですよ」
掌に硬貨を広げ、一枚一枚数える素振りをする。
数が合わないのかもう一度右手をポケットに差し入れる。
脚の付け根がもこもこと蠢く。
今度はちりちり啼く音は聞こえない。
「どうせ殺してしまうのなら、僕に頂けたらと思いますが」
「ああ、よかった。ありましたありました」と最後までポケットの隅で頑張っていた十円硬貨をつまみ出すと、勘定台に揃えた。
殺す。殺さない。
死ぬ。死なない。
一恵はただ影を待つ身の暮らしだ。
それは笑って落とされた火種だった。
「持って行けるというのなら、持って行って欲しいわ」
震える声がほろりと落ちた。
しかし言葉の刹那、一恵は心臓が縮み上がった。
自分は今、何と言った!
落ちた火種をうっかりと受け入れ、ざわざわ火の穂となって広がって行くようだった。
背中にふつりと汗の珠が膨れる。
(本心を探り出されて鷲掴みにされたから、心臓が締め上げられた気がしたんじゃないのか!
本心!
持ち去られることが私の本心だと言うの!)
彼を待つのだこれが義理立てなのだと追っ立てられるように張り続けていたものが、一瞬、百年の間のほんの一瞬の油断を貫かれたことで、全てが消え失せてしまいそうな気がした。
何気なく出た言葉こそ腹中の思いなのだろうか、一恵は蒼くなる。
神様!神様!
ひたすらに違うと叫びたかった。
手近の温かさに頬を擦り寄せる浅ましさを呪うべきで、一恵はこんな瑣末な気の揺らめきで彼を失うことが酷く恐れられた。
「毎度どうも!」
話に一閃叩き落して、一恵はそれきりだった。
男と話を続けることは身の不幸を招く気がして、すいと横を向いていた
男はやはり笑ったようだったが、白い手が煙草を取るとやがて硝子戸が震える音がした。
男は帰った。
(待ってる、待ってる。だからどうか、早く)
気持ちが漣打つ。
あの時のように、男の影がこの硝子に映る日だけを信じている。
早く彼が帰ってきてくれることだけを願う。
早く帰ってきて、抱き寄せて、徒に種を食い潰し続けているわけではないと信じさせて欲しかった。
一恵が触れると、硝子はじりじりと震えていた。
二つの大きな金の目が暗い大気を睨み散らしていくように、爛爛と眩しく迫ってくる。
一日の最後のバスだった。
バスは止まることなく、白い光で一恵の目を焼き去ると、ごとごと体を揺らしながら行ってしまった。
鮮烈な光が瞼を焼いた頂点を過ぎると、大気は一層に冴えるようで、冷や水に浸る感覚を一恵に与えた。
バスの音と共に硝子も直にすうと黙り、一恵は一人だ。
一人であるから、間違いのないよう鍵を挿すと、知らぬ間に日に焼けていたカーテンを引いた。
(参考:石川啄木「小春日の曇硝子にうつりたる鳥影を見てすずろに思ふ」)
20090401(お題:あなたの心臓200g下さいな)
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