めぐり
列車は東に伸びる線路の上を音もなく走っている。
下りの列車は完全に絶気状態で走っているらしいが、この列車も幾つか前の駅を越えた所から、闇のようなもうもうとした煙も慎ましくなった。
見夜子は列車の進む方を向いて腰を据えていた。
別珍に似せた布張りの座席は、小豆色という温かみと、布自体の起毛性の柔らかさをもってして快適そうだが、座ってみれば尻にも背中にも硬かった。
座席の心となる木だか金属だかが、詰め物の弾力すら押し潰して肌に伝わる。
皮と肉の下に骨がある、安い座席が何かの動物の様に思えた。
この物言わぬ生き物に騎する者は、見夜子の他誰もいなかった。
電気が、橙の影を床板に落としていた。
静かだった。
窓の外はひたすらに灰色をしている。
時折、彼方に木立が黒く小さく見えた。
風景はそれきりだ。
雪の様な、ごみの様なものが、風に切り揉まれながら吹き散らされていくのが、窓のすぐ側に見える。
自然に起こる風か、列車が豪とした速さで走ることから生まれた風か、飛んでいくものにもやはり音はなかった。
こちら側は、蜜の様な灯りでひどく暖かだったので、無声の残酷さで叩き付ける様にちちと乱れる灰色のかけの正体は知れない。
窓の向こうの奥行きもなくのっぺりと灰色いのを、見夜子は首だけでじっと見つめていた。
やがてはたと目が覚めた様な心地がした。
意識が他所へ行っていたのか、眠ってしまっていたのか、よく分からなかった。
灰色を見ていたのか、その中にいたのか、自分がそれ自身になってしまっていたのかははっきりしないが、色の記憶しかないのだった。
相変わらず外はその色をしていて、列車は音もなく走っている。
「おひいさんも、一人なの」
舌の足りない声がした。
つい今まで誰もいなかった向かいの座席に、少女が座っていた。
落ちそうなくらいに大きな丸い両目をしている。
見夜子の姿を映しこんでいることすら見て取れる程だった。
射抜くというよりも、そこに留め置かせる力のある目をしていた。
泣いている訳でもない風なのに、濡れた様に光をしばたかせている。
夜空の凝縮を見た心地がした。
「あたし、一人よ。うんと遠くに行くのよ。汽車がどこまで行くのか分からないけれど、でもずっと遠くに行くんだわ。おひいさん、一人?」
おひいさんとは見夜子のことを言っている様だったが、少女は光沢のある鮮やかな紅の縮緬を着ていて、余程どこぞの令嬢に見えた。
雪輪や松竹梅が絢爛に乱れる足元で、金の草履を履いた足が愛らしく揃えられ、揺れている。
見夜子は一人だと答えた。
「じゃあおひいさんあたしと、おんなじだわね。あたしも一人よ。教えてあげる。あたし、この先、ずうっと遠くよ、魚がいる所まで行くの。二匹いたのよ。魚の尻尾と尻尾をね、帯で結んできたのよ、あたしがやったの、ぎゅってやったわ、随分前によ。今もそのままか知れないけど、だってどれくらい前だったか分からないもの、そのままか分からないけど、そこまで行くのよ」
思いついた順に修飾する話し振りに幼さを感じる。
見夜子はそうと言った。
少女がそう言うのだからそうなのだろう。
真偽も不思議も頓着がなかった。
おひいさんは誰に会いに行くのかしらと少女が言った。
高い声だが、先端は丸く滑らかで耳につかない。
「百年分の、夜明けを見なけりゃいけなかったの」
見夜子の男は死んだ。
唇にも頬にも血は通っていたが、それでも死んだ。
平らに滑らかに切られた石の上で瞼は伏せられ、やがて男の肌は石と同じ温度になった。
「百年、お墓の傍で夜明けを過ごすことだって出来ると思っていたのよ。けど、目が覚めてしまったのよ」
男は百年間墓の傍で待てとは言わなかった。
待てば逢いに来るとも言わなかった。
言わなかったけれど、そうしていたら男がまた逢いに来てくれる様な気がした。
けれど百年経つより先に夢から目が覚めてしまい、百合の花など遂に咲くことはなかった。
男が濡れた土の下に埋もれた時には泣かずにいたが、目が覚めて見夜子は初めて泣いた。
「朝に会いに行くのね、素敵だわ」
少女は笑った。
笑うといっても歯は見えない。
唇がなだらかに曲線を描き、両端は小さく窪んでいた。
少女らしからぬ不思議な笑い方だった。
芸妓の様だとも思ったが、しかと芸妓の笑う様を見たことなどなかった。
初めて少女は窓に首を向けた。
肩で一直線に切り揃えられた髪がさわりと揺れたが、二三度振り子の様に揺れると、直ぐに大人しく下へ垂れた。
そして、おひいさんは私よりずうっと遠くへ行くことになりそうだわねと無邪気な声で歌った。
濡れた黒目はガラス越しに灰色を映して、尚もきらきらと光の粒子を散らした。
もはや黒い木立も見えない。
何の立体感もない窓の向こうは、さながら壁の様な色をして沈黙を守っていた。
見夜子は自分が何と返事をしたのか、覚えていない。
20080923(お題:世界のトロイメライを乗せて、列車は走る)
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