ライラック


カナトの朝は早い。雄鶏の声と共にで起き上がり、井戸へ水を汲みに行く。 湯を沸かし、菜を刻み、パンを切り分ける。 ベーコンを焼いたフライパンに卵を落とし少し強く塩を振る。 朝食が出来上がった頃が彼女を起こしに行く時間。 カーテンを開け放ち、おはようを告げ、パジャマを着替えさせたらおぶって階段を降り椅子に座らせる。

「今日もいい天気ですよ」

朝日が射し込む食卓にはほころんだライラックがあった。カナトが水汲みのついでに庭で折ってきたものだった。 甘い香りがした。

「今日はコーンスープとライ麦パンに卵焼きにサラダですよ。蜂蜜は庭で取れたばかりでおいしいですよ」

カナトは湯気が立つコーンスープをスプーンで一掬いし、彫像のように微動だにしない彼女の口元に運んだ。 熱いスープは息を掛けて冷まし、こぼれないよう運ぶ手際は慣れたものだった。

「ライ麦は家の水車で挽いたものですよ」

口を開こうともしない彼女の唇に、ほんの少し力を入れてスプーンの先で彼女の唇を割る。 とろとろとゆっくりスープは彼女の喉に流れ、こくりと嚥下する音がする。

「焼き立てだから、ふわふわしてますからね」

カナトはライ麦パンをちぎり、それも彼女の口に運ぶ。 雛鳥に餌を運ぶ親鳥のように小さく小さくちぎって、少しずつ彼女の口へ運んだ。

「おいしいですか」

答えが返らないことを知っていてもカナトは飽きることなく毎日同じことを尋ねる。 今日も彼女は何も言わない。カナトを見ない目もガラス玉のように透けていた。 カナトは蜂蜜を人差し指に絡めて、垂れ落ちないうちに彼女の唇に差し入れる。

「甘いでしょう」

蜂蜜は彼女の髪と同じ色をしている。

「あなたの髪も甘そうですね」

カナトの指先にはほんの少し、彼女の舌先が触れる。 それは絵画のように美しい、朝の風景。

「シナラ」

カナトはいつも愛しげに彼女の名を呼ぶ。 そして優しく口付ける。 私はその瞬間に、いつも吸い込まれる。



■□■



「覗き見ですか」

カナトは振り返ることもしない。 言葉とは反対に口調は笑いを含んで柔らかい。 それは仕方ない人ですねというニュアンスを含むが、生憎と私の方が年上だ。

「悪趣味な言い方をするな」

私はドアを押して中に入った。 乱暴に往診鞄を床に置いていつものように聴診器を彼女の胸に当てる。

「今日はちょっと早くないですか」

朝食を片付けながらカナトはのんきだ。 小鳥の餌ほども食べないこの患者がなぜこうも健康なのか、私は聴診器を当てるたびに不思議でならない。 心拍は正常、脈も規則正しい。目も耳も異常は見られない。 ただ心だけが死んでいるかのように大人しい。

「私にも段取りがある。お前達はいつも家にいるだろう。早くて何か不都合でもあるのか」
「僕らを暇みたいに言わないでくださいよ。今日は川遊びにでも行こうかと思っていたんですよ」

食器を棚に戻し終えると、カナトは再び食卓に戻ると無花果を剥き始めた。

「こんな時期に珍しいでしょう。旅商人が売ってたんですよ。ちょっと足元見られたんですけど、 川で冷やしておいたので食べごろですよ」

カナトは滴る果汁を舐めながら果実を口に頬張る。 ゆっくりと、殊更ゆっくりと、見せ付けるように彼は無花果を飲み下した。

「先生もどうですか。おいしいですよ」

外では小鳥が囀る。窓では風がカーテンを揺らしている。天使が踊る優しい朝の時間。 彼女は相変わらずガラス玉のような目をして、彼は悪戯に笑いながらバランスの欠いた空気をまとっている。 今やすっかり村に馴染んだこの二人が、手荷物一つでやって来たのはほんの半年前のこと。 それ以前の二人がそれまでどこにいたのか、何をしていたのか、村人は誰も知らない。 ただ、旅の楽師を名乗るカナトはたちまち手にしたバイオリンの音色で村人を魅了した。

「そうやって仕立て屋の娘を垂らしこんだのか」
「あの子が僕を欲しそうにしていたからですよ」
「その前は靴職人の奥さんだったか」
「だってお互い都合がよかったんですから」
「鍛冶職人の未亡人は未だにお前を熱い目で見ているな」
「先生はどうして全部知ってるんですか」

人を食った柔らかな笑顔のままカナトの唇がに私の唇に触れた。甘い味がした。
私はカナトの頬を打つ。

「あなただって好きなら好きと言えばいい。ジュヌヴィエーブ先生」

カナトは打たれた頬に触れながら笑って見せた。伏目がちな目は背筋が震えるような抗い難い笑みを湛える。

「ジュヌヴィエーブ」

聞き慣れた名が、聞いたこのない甘さを孕む。 後ずさりしてもカナトはにこにこと微笑んだまま髪先に口付ける。 シナラは変わらずガラス玉の目で宙を見ている。 私は悪意を隠さずにカナトの手を振り払う。

「兄妹の癖に、汚らわしい」
「兄妹、かもしれないですよ。間違わないでください」

カナトは表情を変えないまま私の首を撫でた。唇を落とした。冷や汗が流れる。 彼にしか通じない反論の意味することなど私に分かるはずもない。

「仕立て屋のご主人がカンカンみたいですね。それを教えに来てくれたんでしょう」

耳元で囁く声はすべてを見透かしていながら、内緒話をする愉快さが滲んでいた。

「そろそろこの村も潮時だと思っていたんです。先生、お世話になりました」

邪気のない、年不相応に幼い笑顔でカナトは頭を下げた。 初めて村にやって来たとき、カナトは自分たちのことを兄妹だと言った。 妹は心を壊してしまったので、世界中を回って妹の心に触れるものを探しているのだと美しい旋律を奏でた後に言った。

シナラの髪はブロンド、カナトの髪は漆黒で、シナラの目は深いグリーンでカナトの目は淡いブラウンだったけれど、 カナトは兄妹だと名乗った。

「先生。さようなら」

まるで口付けされたような余韻。 けれどそれに浸る間もなくシナラを背負いバイオリンケースを抱えたカナトは来たときと同じように身軽にドアに手を掛ける。

「こんなことばかり繰り返してどうする。次から次へと渡って、何が残るというんだ」

私は立ちすくんだまま、投げつけるようにカナトに言った。 見抜かれたのは恋心かそれよりも浅ましい倫理のそれか。

「兄妹だとか、兄妹じゃないとか、やっぱり兄妹だとか。いつもいつもうるさく纏わり付くのはあなた達じゃないですか。 淫乱の血が僕達の行き先を塞ぐ」

縋りつく甘さをカナトは許さなかった。

「シナラがいれば僕はどこだって構わない」

カナトはやはり振り返ることなく、来たときと同じ二人きりで、手荷物一つを携えて村を出て行った。




20080921(お題:真珠色したお姫様)