落 星 夜 姉さんが死んだ。街を見下ろせる美しい丘の木の下で、車にガスを引き込んで恋人と死んだ。 静けさに侵された夜だった。 それは限界まで張り詰めた緊張の糸による不自然な静寂だった。 家族は突然降って沸いた死を受け止められず圧倒されるばかりだった。 肩を抱き合うことも不意に死んだ姉を責めることも出来ずに残された三人の家族は呆然としていた。 「なんでなん……」 線香番をしていた百合がが、背中を丸めて呟いていたのは深夜のことだった。 眠ることができなかった柊生が水を飲むため階段を下りたとき、姉の遺体を寝かせている和室から弱り果てた声がした。 引き戸からは細く光が漏れていた。惹かれるように柊生は部屋を覗き込んだ。百合は拳を強く握り、 何も言わない姉に「なんでなの……」を繰り返していた。 電灯がジジと嫌な音で鳴る。その音は耳障りで柊生の気持ちがざわつかせた。 柊生は引き戸を引くと、何も言わず百合の隣に正座した。 畳の軋む音すら沈黙に突き刺さる。この部屋からは何の音もしない。 音がしないということは死んでいることに似ていた。目の前の何の音も立てない姉を見て、柊生はそう思った。 柊生と百合は死んだように口噤んだまま並んで座り続けた。 「あんたにとって、この子はどんな姉さんだった」 線香が根元まで燃え落ちた。百合はようやく柊生に顔を向けた。やつれた顔をしていた。 滅多なことでは動じず、笑顔を絶やさない百合がたった数日で面差しを変えていたことに柊生は驚いた。 髪はほつれ、目は赤く、頬には色がない。 その疲れ果てた顔にようやく気づいて、柊生は姉が死んでからろくに百合の顔など見ていなかったことを思い知った。 「あんた、酷い顔してるわね……」 百合は力ない苦笑を浮かべながら柊生の頭を撫でた。 ろく顔を見ていなかったのは互いだった。酷い顔の二人は拳一個分の距離を踊らせたまま揃って背中を丸めた。 「やさしかったよ」 俯いたまま柊生は言った。 姉は年の離れた弟を疎むことなくよく構った。 「それから」 感情のない声が柊生を促す。 「きれいだった」 二重の大きな目がにこりと笑うと、柊生は訳も分からず恥ずかしくなった。 光を吸い込む黒髪、整った目鼻立ち、快活な明るさ。それらに裏打ちされた姉は、とてもきれいな人だった。 だからなおさら、ものも言わず横たわるばかりの姉に柊生は打ちのめされる。 まるで姉らしくない。 笑いもせず、怒りもしない。柊生をからかうこともしなければ、百合と口喧嘩することもない。 ケーキが食べたいと駄々をこねなければ、朝寝坊ももうしない。 「昨日、笑ってたのに。いつもとおんなじだったのに、なん……」 柊生の声は嗚咽につぶされる。 いつもと変わらない様子で、恋人とドライブに行くと言ったまま彼女は帰ってこなかった。「死んでいる」というだけで、そこに横たわる姉と昨日まで姉は重ならない。 「この親不孝もんが!あんた、何が不満だったんよ。何が嫌やったんよ!!言うてみいな、言うてみいこの馬鹿娘が!!」 百合は姉を責める。泣きながら責めて責めて責めて責めて、その胸を叩いて責めても、顔の上の布が落ちるだけで当の姉は何も言わない。 遺書も残さず、恋人と強く手を握ったまま死んだ姉。 来年には繋いだ手の相手と結婚することも決まっていたのに。 「何が辛かったん……。死なんといけんぐらい、あんたは辛かったん……」 元気な母と茶目っ気の多いな姉と、その姉を慕っていた少し内気な弟。その三人だけの部屋。 生きているのは二人、死んでいるのは一人。 死んだ人間を「一人」と数えていいのか、12歳の柊生にはよく分からなかった。 時計の音が忙しなく容赦なく時を進めていく。 このまま夜は明けず、姉は死んだまま。 それならなんとなく分かる気がした。 けれど夜が明けるのに、姉は死んだまま。 そのことはとても不自然に柊生には思えた。 柊生がそう思うのは二度目のことだった。 「この子のいないこの家で、やっていけそう?」 姉を見つめたまま、百合は柊生にそう聞いた。 柊生の涙は一層こぼれた。 「難儀やなあ。あんたまた家族がいななって」 百合は柊生を抱き締める。 最初柊生はされるがまま、そしてその背中に縋りつく。 「ごめんなあ。ほんま、ごめんなあ」 かつて柊生が亡くした人と同じ人を亡くした百合は言う。 柊生にとっては「父」で、百合にとっては「弟」であった人。 柊生には「母」であり、百合にとっては「友人」で「義妹」だった人。 そして今夜また二人は同じ人を亡くした。 柊生にとっては「義姉」であり、百合にとっては「娘」であった彼女を。 柊生にとって、目の前にいるこの「母」は代わりだった。 寝室で一人眠れずに娘の死に押しつぶされている「父」も代わりだった。 柊生は「姉」を持っていなかったから、今目の前で死んでいる姉は誰の代わりでもなくただ柊生の「姉」だった。 この姉がいたから柊生は曲がりなりにもこの家の「家族」になれたのだった。 「おかあさん」 柊生が百合をその名で呼んだことはこの二年間で一度もなかった。 欺瞞に満ちたそれを百合は甘受する。 目を伏せて、耳から身体に染み渡らせる。 「おかあさん」 百合にとってそれは甘い響きだった。 柊生は泣きながら百合に縋りつく。 二年前突然両親を亡くした少年は、やはり動かなくなった母にすがりついて何度も何度もそう呼んでいた。 「柊生、柊生…柊生……、」 子供を失った母親がいた。親を失った子供がいた。 向けるべき愛情の行き場を失って夜の底に取り残された二人がいた。 「柊生……」 「母」を求める手を「母」である百合が拒めるはずもなく、藁を掴むように柊生は百合に「母」を求めた。 二人は声を上げて泣いた。 硬直した世界が溶け始める。無音の部屋が音を立て始める。夜は確実に明けに向け、薄らいでいく。 「死なんといて。後生やから、あんたは死なんといて……」 死人を慕ってようやく二人の「親子」は始まった。そこになるのは打算ばかりの愛情。 舐めあうばかりの不安定で脆い。でもこの瞬間が、皮肉なことに幸福への過渡期。 2008/08/17(お題:幸福の過渡期) |