白熱灯の下で
恋に悩む歌、嘆く歌、悲しむ歌はあれども、成就の喜びを詠った歌はひとつとしてなし。
もう結構な年だろうに頭に白の混じらない教授が嬉々として語る。
自分の畑にいるのはそれは楽しかろう、永子だって冷蔵庫に残った野菜の端やら卵やら味噌やらちくわやらでどれだけの夕飯が作れるかという話になれば、友人に「もう結構」と言わしめる自信があった。
一家言持った人間ないしはその様な催眠状態に陥っている人間と共に、その畑に入ってはならない。
特に後者は厄介であると永子は我が身の危うさゆえにしっかりと知っていた。
「恋が実ったぞやった、という歌はないんですね。恋の歌と言うものはどれもが哀切を詠ったものであり、はいではちょっと新古今の恋歌の項目を見て下さいよ、千四百五番これ小町の歌ですね、わが身こそあらぬかとのみたどらるれとふべき人にわすられしより、これなんて悲しいですね、好きあってた男が尋ねてこなくなってしまったんですね、それで次の……」
教授の話は止まらないが、永子はどうも理解できない神経に追随を諦めた。
悲しみなんて、誰も踏まない草の根をご苦労に掻き分けて、しかもそれをまるで宝のように美しい言葉で飾り立てたりしなくたって、いつだってそこいらにあるじゃないかと永子は呆れかえる。
悲壮は、部屋に抜け落ちた髪だ。
薄いカーペットの上に、頭を抱えた机の灯りの側に、石鹸ではどうしようもない女の赤が染め抜かれてしまった寝具のカバーの上に、何食わぬ顔で抜け落ちた髪だ。
いつだって自分の生活の側近くにあって、そのくせ普段は暮らしに目を回してるから構っている余裕なんてありはしない。
ようやく夜の布団の布地の冷たさに素足を差し入れ枕に頭をおいたとき、あるいは薄いばかりで床の硬さを隠そうともしないマットに右頬を下に行儀悪く寝そべっているとき、ふと気付くのだ。
散らばる自分の悲しみに。
義務の思考を手放したときの自分の思考はどうも落ち着かない。
衣服はしっかり着ている、けれど足だけが丸裸で土の上へ一人放り出されたような不安定さを覚える。
自由と指針の喪失の境も分からぬ思考は、犯罪者もかくやという勢いで垣根も海も世界すらも超えて、脈絡のないことを考え出す。
そして永子にとってそれは大抵が、赤子に添うて眠るように自らの悲しみに寄り添うことになるのだ。
「だから私暮れから口をすっぱくしてたじゃないの。暮れったらあんた、思い出してもごらんよ、あんたらがつきあい始めてすぐのことじゃないさ。だのに、そんなことない知りもしないでって見上げた啖呵きったのは誰だったよ。春、あんたじゃない。まったく、だから年かさの言うことにはハイハイって素直に聞いとくもんだよ。何さ……ひとつしか違わないって、あんたその一年だってそのなんとかって男と続かなかったじゃないよ」
壁にたっぷり体重を預けて、芳子はビール缶をあおった。
白いのどがごくりと音を立てて動いた後、「文句があるなら言ってごらんよ」と大げさな音を立て缶を机に置いて、立てていた片膝を反対にした。
「うるさい、嫌いよお姉ちゃんなんて!お姉ちゃんがそうやって好かないことばっかり軽々しく言うから、だめになったんだわ、きっとそうよ。だってそんな人じゃなかったもの、本当よ、だって好きだって言ってくれたわ、私が一番だって、そう言ってくれたのに、もう全部お姉ちゃんのせいだわ」
落ちた前髪の隙から見える春の目は、痛々しいまでに赤く濡れていた。
その痛々しさは、おぼこ育ちのそれだ。
永子の家へ飛び込んできたときには、それはもう見事といえるほどの涙顔だった。
二十を過ぎた若い女が、子供同然に鼻水を垂らし「永ちゃん永ちゃん」と馬鹿みたいに繰り返すのだ。
それでもしっかり体は女で、スカートから伸びた足は白く長いし掻きついた首もとからは甘いにおいがしたし涙で化粧は肌から分離してしまっていて、その光景は何だか異様だった。
要領を得ないままぐずぐずと泣く従姉妹をどうにかこうにか膝から剥がして台所で湯を沸かしていると、「こっちで春が迷惑かけてやしないかい」と芳子がドアを開けたのだった。
「顔のいい男ってのはえてして情なしなもんなのかねえ。いいじゃないか、情なし男は別れて正解、生娘でいられたんなら万々歳の儲けもんってなもんだよ。ねえ永子、あんたもそう思うだろ」
当初テーブルにはコーヒーの並々入ったカップが三つであった筈だが、春の泣き止むのを待っている内にコーヒーはビールになり、何品かの肴が小振りのテーブルを賑やかせた。
肴は予定通りに行けば永子の夕食になる筈だったものだったのだが、溜息を聞かせることと引き換えに冷蔵庫を空にすることを了承したのだ。
「生娘ねえ」
一人暮らしの狭い部屋だ。
テーブルと芳子と春で満杯になったカーペットは諦めて、永子は自分のベッドの上でしゃなりと膝を崩していた。
生娘とはまた古臭い言い方をするものだと永子の思考は見当はずれなところにいたのだが、笑い種にすることで春のすぼんだ背にものさしを一本入れてやろうという芳子の気持ちが分からないこともなかった。
「永ちゃんだって分かるわけないわよ、永ちゃん「はじめて」じゃないもの」
ぼとぼととだらしない雨粒のように落ちる涙は引っ込んだが、未だに濡れた瞳と睫をしばたかせて春が抗議した。
何を言うのだこの娘はと永子はいささかぎょっとしたが、「知ってるわ私、永ちゃんが男の子と一緒にいたの知ってるわ。法学部の男の子でしょう、永ちゃんてば学部違うのにどこで知り合ったのかしらって私ちょっと不思議に思ったんだもの。私その人と教養の授業が同じだったことがあるのよ、なんていったかしら、ああ三木なんとか君っていったっけ、背が高くて目元がしゅっとした子よね、でもちょっと永ちゃんとは雰囲気違うわ、頭だって茶色いし」と続けざまにまくし立てられて更にぎょっとした。
こうも明け透けに並べ立ててくれるとは、呆れた調査の敏腕さだ。
今度の春の破局は、彼女の敏腕が裏目に出たものではないのかと思う。
安心が欲しくて内側の奥の奥まで探る心は、永子にも分からないことはなかった。
けれど手帳にしろ引き出しにしろ風呂場にしろ、注意して探ってもろくな答えは出てこないのだ。
しまっているのは取って置きだからなどというものではなくて、もっと単純かつ純粋に見せたくないからだ。
奥にしまっているものは大概が女にとってよろしくないものであるということを知ってから、永子は常設の展示だけで満足するよう努めるようになった。
しかし男と連れ立ってるというだけで「はじめてじゃない」とは、またおぼこらしい突飛さだ。
世間知らずのお嬢さんがなまじ知識をつけたらこんな惨事になってしまうらしい。
馬鹿もここまで行くと可愛げすら帯びてくる、怒る気にはならなかった。
「何だいそりゃ初耳じゃないか、永子、あんたそんなのきっちり私に報告しないでどうすんだい」
茄子の揚げ浸しをつまもうとした箸がきっと音を立てて自分に向けられた。
結露したガラスの器とビールの缶の間に、芳子の箸から飛んだつゆがとっとっと丸く落ちた。
つゆの玉はにわかに光るが、それは揚げた茄子やら獅子唐やらの油光だ。
綺麗でもなんでもない。
「報告することもなかったもの。それより春、あんたちょっと知的好奇心が過ぎるわよ。その某君とやらにもその調子でいたんじゃないでしょうね、ひょっとしたら本命さんが他にいたなんて出任せで、あんたの探偵ごっこに付き合いきれなくなったのかも知れないわね」
「永ちゃんまでひどい!」とそぼった目を歪める春にもお構いなしに、背中と箸を床と水平に伸ばしてベッドにいながら漬物を取り皿に移す。
報告することなんてなかったのは本当だ。
好きだといわれて、それが自分も好きな人間だったから一緒にいたが、図らずしてそれは自分の前にこの立ち位置にいた人間を押し出すことであった、そしてそのお鉢が今度は自分にも回ってきた、それだけのことだ。
それだけのことだと馬鹿ほど言い聞かせるうちに、本当に些末なことかに感じられるのが不思議だった。
「春に据え換えようなんてすんじゃないよ。で、なんだ、三木だっけ、そいつどんな奴なんだい」
芳子は目聡く耳聡い。
「春が今充分言ってくれたじゃない、私だって別れた男のこといちいち思い出して未練ったらしくくだ巻きたかないわよ」
今の自分は先の春ほど言えるだろうか、それだけのことだと無理やり片付けてしまった男のことなどいちいち思い出せない。
これは努めに努めぬいた成果であるが、人はこれを情なしというのかも知れない。
だとしたらとんだ言いがかりであると思う。
あの時は、普段気にも留めない抜け落ちた髪が目障りで仕方なかったのだ。
「永ちゃんも別れてたの」
春が素直に驚いた声を上げた。
「永ちゃんも」という言葉に喜びにも似た安堵の色が確かに光ったのを永子は見逃さなかったが、春のこのおっぴろげな素直さは嫌いではなかった。
「へー、馬鹿な男もいるもんさね。糠床まぜれる女子大生なんて今時ざらにはいないと思うがねえ」
「馬鹿は芳子。漬物漬けれて男が逃げないなら、不倫も離婚も無縁の世の中よ」
箸で漬物を突き刺して芳子が笑う。
「でもこれ本当においしいわよね」と春が漬物に箸を伸ばしながら間抜けなことを言うものだから、もうひとつ芳子が大きく笑った。
「もういいからさ、テーブルのそれ、ちゃんと拭いといてよね」
テーブルにはてらてらとこぼれたつゆが二点三点光っている。
永子はベッドの側からティッシュ箱を二人へ投げつけた。
瞼の向こうが明るいようで、永子は固い半身を億劫に起こした。
灯りを点けたまま寝ていたようだった。
煎餅布団よりよっぽど寝づらいだろうに、しかし器用にも芳子も春も揃って薄い敷き布一枚で規則正しい寝息を立てていた。
姉妹らしく、机の北側と南側で互いに脚を折りたたんでいる。
春はいかにも乙女らしく薄く口を開けている、芳子は鼾にも似た寝息だった。
酒も回って眠りも深いのだろう、皓皓とした電気を真っ直ぐに食らっているというのに、当人達は丸い背中をして時折口の中で何かむにゃむにゃと唸っている。
失敗したと永子はずるずる布団にうつ伏せ、じんと重い瞼を重みのままに伏せる。
夜の真ん中、暗さの只中に一人目を覚ましてしまった。
こういうときに一人目を覚ましてしまうのは大層な「損」だと思う。
ひどく不安なような寂しいような路頭に迷ったような、もったりとした言い知れぬいやな気持ちが胸の中を満たしていくのだ。
電気を切るのも煩わしく、永子はもう一度意識を手放すことに集中することに取り決めた。
硬い天井からの光も、抜け落ちたところで浅ましく存在を主張し続ける髪の毛も、見たくはなかった。
20080712(お題:悲しみが落ちてくる)
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