白く描いた赤 橿原宮に攻め入った常世の国の兵は次々に火を放っていき、宮が落ちるのは時間の問題だった。炎は二の姫の居室まで及び、逃げ惑う人々の悲鳴と恐怖で宮内は混乱していた。 「忍人様、姫様は無事行かれましたか」 そんな中で二の姫の装束に袖を通したは落ち着いた声で言った。金の髪によく映える紅の着物は、同じ金の髪のにもよく似合っていた。 「無事に城外まで脱出したようだ。後は俺達が出来るだけ時間を稼ぐだけだ」 忍人は血に濡れた剣を一振りし赤を散らした。剣の刃零れは、彼が切った人の数と比例する。 「そこまで兵は来ている。出来るだけ食い止めるが――」 「私は大丈夫です。大丈夫、上手くやります」 は自分に言い聞かせるように強く目を閉じ、胸を叩いた。落ち着かせるように吐いた彼女の息は震えていた。見送ることしか出来ない忍人は何と言えばいいのか分からない。炎に照らされたの横顔はいつもより大人びて見えた。 「ねえ忍人様」 木が燃え落ちる音がする。二人の間に火の粉が散る。は空っぽの忍人の手に触れる。 「姫様を守るように、守ってね」 は恐怖を押し殺して無理に笑った。冗談めいた笑顔は硬く強張って今にも崩れ落ちそうだった。こぼれ落ちる彼女の不安が忍人にも伝わった。 (もっと、力があれば) 忍人は唇を噛む。剣を強く握り直しての笑顔を目に焼き付ける。彼女と離れなければならないことに、忍人は初めて泣きそうになった。やがて常世の兵の足音がする。忍人は再び剣を構える。は「」の表情を止める。剣のぶつかり合う音。逃げ惑う官人たちの悲鳴。は最後まで取り乱すことなく、上手く常世の兵に囚われた。 忍人は見習いの剣士では二の姫は影武者だった。 二人は互いの仕事を果たすために、繋いだ手を離した。 +++ 5年が経っていた。 が常世の国から帰還した。二の姫の影武者として、二の姫の帰還まで二の姫であり続ける任を果たし忍人の前に帰って来た。千尋・風早・柊との感動の対面はやがて宴会に変わり、丸い月の浮かんだ夜は賑やかに更けていく。しかし忍人はその輪に加わりきれず、宴が深まるとひっそりと席を立った。 忍人はに一言も声を掛けられずにいた。 「忍人様」 だった。水辺でぼんやりと月を眺めている忍人の隣には立っていた。 「お久しぶりです」 5年の空白を感じさせない自然な口調で、見下ろすとはにかんだように緩くは笑った。大人びた笑い方だった。 「風早様が探しておられましたよ。布都彦様も、元気がないと心配しておられました」 「宴にいないのは君も同じじゃないのか。今晩の主役だろう」 忍人がそう言うとはふふふと笑った。怪訝な顔でを見返すと、は一指し指で忍人の鼻先をつついた。 「やっと喋ってくださいましたね」 悪戯成功した子供の無邪気な笑顔だった。 「帰って来てから、忍人様。喋ってくれないどころか近寄ってもくれなかったんですもの。私そんなに変わりました」 梢が鳴る。の長い金の髪はまるで色の同じ月へ帰ろうとするように、宙をたなびいた。髪を押さえる仕草、白い首筋、大人の笑い方、距離を感じさせない無邪気さはきっと気遣いで、そういうところすべてが変わったと思ったが、忍人は言えなかった。痩せた輪郭は女を損なわせるものではなかったが苦労を偲ばせ、細い手足は頼りなさげでしっかり彼女を支えている。強かになった。忍人はそう思った。 「綺麗になった」 そういう彼女を総称すればつまりはそういうことで、忍人はそんな彼女に気後れしていたのだった。水辺の睡蓮はまだ蕾だが、その蕾もやがては美しく花開くだろう。5年ははそういう年月のことだった。 「……、忍人様もお変わりになられましたね」 「そうか」 「さらりとそういうことが言えるようになったところは」 二人は揃って月を見上げた。 「何か言いたいことあって来たんじゃないのか」 水辺はまるで夜の底だった。星影も月光も届かない真っ暗な闇。二人には似合いの場所だ。 「言えるかなと思ったんですけど、やっぱり駄目そうです」 柔らかさと諦めが同居していた。それは優しと似ていて、忍人は少し困った。 「あなたががこの5年で疲れきっていたら、呆気者になられていたら。そうだったら言えたんですけど、忍人様は忍人様ですね。大事なところは全然変わっておられない」 「君も同じじゃないか。5年で変わっていたら、そんなことを俺に言えるはずもない」 忍人はため息をついた。 「こが破魂刀だ」 忍人は腰の刀を抜いて見せた。 「月の光だとまた嫌な感じに冴える」 鞘から放たれた刀身は鈍く不気味に輝く。夜によく馴染む剣だった。は顔を背けた。 「捨ててくださいとお願いするつもりでした」 「ああ」 「泣いて縋って、頷いてくださるまで動かないつもりで」 「ああ」 「どこか田舎に引っ込んで、ゆっくり暮らそうとお誘いするつもりでした」 「悪くはないな」 横滑りしていく会話。虚しくて、虚しくて、けれどが憧れた忍人は変わらずにいて、は嬉しいのと悲しいのがない混ぜになった気持ちで忍人を見た。厳しいところも、不器用なところも、国を思う心も、全部5年前と同じで、そういう人でなければ国は守れないと5年の人質生活では学んだ。まして今まさに復興しようとしている国は、犠牲を払うぐらいの代価がなければ成し遂げられない。 「犠牲」は役割だ。なくてはならない場面が必ずある。しかしそれは民に負わわせるものでなければ、一般兵に負わせるものでもない。まして王がそれに倒れるなど言語道断だ。「犠牲」は「犠牲」の意味を理解した忍人やのような上に立つ者の役割だった。 「姫様はもうご存知で」 「この間泣かれた。忍人さんの命が大切なんですと、怒られた」 「じゃあ大丈夫ですね」 泣いて縋って止めるのはの役目ではなく、千尋を守り中つ国を復興させることにこそある。忍人の心配をしてくれる人がいるならそれでいい。それが千尋なら、尚更いい。 「私にあなたを好きになる資格なんてありません」 はおもむろに懐からから小刀を取り出すと長い金の髪を断ち切り、湖に投げた。それは捨てたと言った方が正確だった。 「姫様は短くされてましたから。もうこれはいりません」 湖に光る金は、次第に底へと落ちていく。ゆらゆらと揺れながら沈んでいく様は夢のようだった。 「もし俺が君の言うように変わらずにいられたのだとしたら」 忍人は、沈む金を見送りながら5年間離れたままになっていた手を繋ぎ直した。手は冷え切っていた。 「それは君のお蔭だ。君がいるのだと、そう思って俺は戦ってきた」 風早は二の姫を連れて逃げた。柊は常世の国へ寝返った。羽張彦は一の姫と共に消えた。一人残されたのは忍人で、何の希望もないまま振るう剣は重かった。それでも待ち続けられたのは、それでも諦めなかったのは、同じように一人で戦っている人がいることを知っていたからだ。 「君は二の姫を守ってくれ。俺は君の守った中つ国を守る」 指先から鼓動が伝わる。けれどそれでおしまい。絡んだ指はどちらも冷え切っていて温めあうことすら出来ない。 「忍人さんに守って貰えるなら、中つ国は大丈夫ですね」 「高く買うな」 忍人は笑う。けれどは真面目に返す。 「5年前、守って貰いましたから」 赤が散っていた5年前の日。火の粉、血飛沫、それらが忍人の横顔に散ってを守った。剣を手に押し入った常世の兵。飛び交う怒号。どこまでも追いかけられ、逃げてはいけない恐怖。それらからを守ってのは忍人で、もまた忍人がいることで戦うことができた。それはこれからも同じだ。 「私、姫様の説得で忍人さんが剣を捨ててくださることを信じてます」 忍人は聞かなかった振りをした。も言い重ねることはしなかった。二人はそっと繋いだ指を離した。水面では月明かりを浴びた睡蓮が音もなく花を開かせた。それは夜の底に咲いたたったひとつの星のようだった。 20081102 |