ひ ぐ ら し
ぬるい風が頬を撫でる。庭の葉が陽射しを照り返し揺れていた。
その葉は地面に影を落とす。陰影の濃い夏の昼下がりは緑の匂いを含んでいた。
「小十郎様。一息つかれませんか?」
風鈴が蒸せた風を冷やすように鳴る。
盆の茶を文机に置いて、は眉間に皺を寄せる夫に問いかけた。
「あと半分だな」
ため息をつきながら小十郎は筆を置いて、湯飲みを手に取った。
いつもなら欲しがらない甘い茶請けもそっとその隣に置いてみると、小十郎は珍しく一口で食べてしまい茶を啜った。
かなり疲れているようだ。
「まったくあの方は、いくら言っても聞いて頂けない」
ため息をつきながら小十郎はこぼす。
どうやら若殿の皺寄せが小十郎に回ってきているらしい。
度々この屋敷にふらりと現れ、「供もつけずに何をしていらっしゃるんですか」と飽きることなく同じ小言を繰り返す
小十郎をにやにやと笑いながら受け流す若殿の悪戯な笑顔が浮かんでは自然笑みが漏れる。
「笑い事じゃない」
渋い顔で窘められても、この主従の気安さをよく知るとしては奔放な子に手を焼く親の愚痴にしか聞こえない。
ご辛抱ですね、と微笑み返しても憮然とされてしまう。
小十郎は、案外に子供のような面を残していてはおかしくなる。
恐らく、若殿が奔放なので小十郎が大人になるのだろう。
もし若殿の守役でなかったら、もう少し箍の緩い人柄になっていたのだろうか。
そんな想像をしてみるのも面白かった。
「案外、小十郎様は政宗様に大人にして頂いているのかもしれませんね」
小十郎は怪訝な顔をしていたが、は納得がいって一人で肯く。
風鈴は鳴るのを止めた。
と小十郎は、何かを話すよりもぼんやりと隣で座りあっていることが多い。
多い、とは言っても内務整理のため家を開けることが多い小十郎と共に過ごす時間は減るばかりなので回数として多いというよりも隣あっているときは大概そうなのだと言った方が正しい。
小十郎の留守中の家内のことを話した後は、ぽつりぽつりとどちらともなく呟き肯いたりしながら、ゆるゆると過ぎるときに身を委ねるのだった。
「ああ、とんぼが、小十郎様」
は文机の端に止まったとんぼを驚かせないように小声で小十郎を呼んでみたが、その横顔を見ると小十郎の瞼は落ちてうつらうつらしていた。
道理で静かだったはずだ。珍しい。
確かにこの連夜、障子から漏れる明かりが消えることはなかった。
「お休みになられませんか?今、布団をお敷きしますから」
「いや、半刻で起こ、せ」
うつらとしながらも瞼を開けようとする小十郎は呂律が怪しく、いつもの芯の通った背は猫のように丸くなっている。
途切れがちに眠りへと落ちていく小十郎は、何を思ったのかの膝の上に頭を乗せそのまま寝息を立て始めた。
「小十郎様っ」
呼んでみても落ちた瞼が開かれることはない。
顔を覗きこんでみると、寝ているときまで眉間に皺を寄せているのではその皺を伸ばしてやる。
髪を梳いてみても、ぴくりとも動かないその眠りの深さに疲れの溜まりを知る。
けれど。
疲れの滲む顔が愛おしくなるっといったら怒られるだろうか。
傾き始めた陽はまだ淡い橙で、熟すにはまだ時間が足りない。
暮れ行く空を眺めるのも穏やかではこの時間が愛おしい。
も欠伸をかみ殺す。このまま一緒に眠ってしまいたい。
誘惑はとても甘く、団扇を扇ぐ千代の手もどこか怪しくなり始める。
庭では、かなかなとひぐらしが鳴いていた。
(2007/8/29)
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