と 林 檎 の ワ ル 




その病室からは消毒液の匂いに紛れて甘やかな香水の匂いがした。 控えめでも華やかな色のある香りは、病院の空気には馴染まない。 消毒液と二枚写しになりながらもほのかに薫るそれに、まるで蜜に誘われる蝶のように、雲雀は開けっ放しにされているその病室を覗いた。

色のない影のようにひっそりと、白い顔をした少女が一人上半身を起こして何か書きものをしていた。 筆跡の音だけが冷たい壁に響く病室。動いているのは彼女の腕だけで、長い髪が横顔を隠していた。

表情の動きも呼吸する喉も見ることは出来ない。 時の経過を端的に示す秒針すら雲雀の耳には聞こえず、何もかもが静止して時は凍っているかのようだった。

それは雲雀の肌合いによく馴染み、心なしか他の病室よりも冷たい空気を肺に満たした。 不意にペンの音が止まった。 空が翳ったようで病室の窓から落ちていた影は薄く消えた。

少女は雲雀に気づき、少し首を傾げて病室のドア先にいる少年を不思議そうに見つめ、雲雀も覗き込むようにその目を見返した。 少女の喉には白い包帯が巻かれていた。

「君、喉悪いの?」

雲雀は断りもなく病室に一歩足を踏み入れ、見舞い客用のパイプの丸椅子に腰掛けた。 少女の戸惑いを分かっていながら、雲雀は毒を含んだ自覚的な無邪気さで笑みを浮かべた。

『昨日腫瘍を取ったばかりだから』

少女は雲雀の笑顔に気圧されてペンを走らせたようだった。 真っ直ぐ几帳面に並んだ文字は美しいというよりも端整で、雲雀は気に入った。

「へえ。それは大変だ」

いかにも他人事、そんなぞんざいな物言いをしながら不審を抱く目に不敵に笑ってみせる。 先に地場を固めた方が勝ちなのは、何も喧嘩に限ったことではない。

『何かご用ですか?

文字だけではどうしても簡素でそれはときに無愛想に繋がる。 それを気にしたのか、単に雲雀に警戒しているのか、遠慮がちに彼女は雲雀に尋ねた。

「込み入った用はないよ。でも、ここは静かで気に入った。君退屈してるだろう?話し相手になってあげるよ」

一方的に、尊大に。愛想と媚を同義語にした雲雀は反論の余地も与えず、理不尽の一歩手前に目を丸くする彼女に取り付ける。 静かで気に入ったというのは本当だった。

彼女が喋れないことは煩く何かを尋ねられることがないということで、静寂を好む雲雀には好都合だった。 不意に香った控えめな香水が彼女が冷たいだけの彫像ではないこと示していて、興味も沸いた。 退屈な入院生活の手ごろな暇つぶしを見つけて雲雀は上機嫌だ。

「また会いに来る」

嫌とは言わせないと微笑んで、雲雀は病室を出た。


■□■




『雲雀恭弥君って言うの?』

雲雀が少女の病室を訪ねて早々、雲雀が何か言うより先に紙を突き出す彼女は得意気に笑った。

『看護師さんに聞いたらすぐ分かった。有名人みたいだね』

そう続く紙の上の言葉は、彼女が突然で不躾な少年を鷹揚に受け入れたことを示していた。 彫像は冷たい石ではなく、柔らかく変幻自由な粘土から出来ているのだろうと雲雀は思った。

「そういう君は?」


名前を知る。たったそれだけのことで何もかもを手入れた気分になる。 額に手を当てて、雲雀はこみ上げる笑いを抑えた。 どうしてか、ままならない自分が愉快で仕方がなかった。

「今日はそこのソファを借りに来たんだ」

雲雀は付き添い者のための簡易ベッドを指差した。

「僕の部屋は少々うるさすぎてね。少し寝させて貰うよ」

いいかとも聞かず、駄目だという返事も聞かず、さっさと横になった雲雀は本当に目を閉じて寝息を立て始める。 呆気に取られたのはの方で、どうすればいいのか自分の病室でありながら所在がなくなってしまった。

文句を言おうにも問いただそうにも声は出ない。は途方に暮れた。 検診時間は雲雀が来る前に終わっているので看護師に見つかることはないだろう。 しかし雲雀は病室を離れても大丈夫なのだろうかと心配になる。

そして当の本人は冗談のような用件は冗談ではなく、本当に眠ってしまっている様子を見ると起こすことも躊躇われた。 傍若無人を絵に描いたような振る舞いながら怒る気にもなれず、声が出るならば一言ぼやきたいとはため息をついた。

この日の空は快晴で、窓から零れ落ちる陽射しは眠っている雲雀の顔にかかる。 雲雀のことは訳が分からないものの、寝ながら顔をしかめている様子を見てしまうと、はベッドを降りてカーテンを閉めるために雲雀の眠る簡易ベッドの前に立った。

思わず覗き込んだ雲雀の顔は、人を食ったような生意気ななりは潜んで年相応に幼かった。 ほんの少しでも音を立てると目覚めてしまいそうな繊細さも見えて、はそっとカーテンを閉めた。

特にすることもない。目の前ではどこか幸せそうに眠る少年がいて、カーテンを閉めた今病室は薄暗い。 なんとなく頭に靄がかかり始めたなと思ったのが最後、そうしてもつられてうつらうつらと眠りに落ちていった。

が目を覚ますと窓の外は夕暮れで、雲雀の姿はもうなかった。 几帳面に端をきっちりと揃えて畳まれた掛け布団が妙におかしくて、また明日も来ないだろうかとは一人笑った。



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「見舞いに林檎貰ったから剥いて」

雲雀は病室のドア先からに林檎を放り投げた。 テレビを見ていたは不意打ちに慌てながらも、どうにか手のひらに林檎を捕まえることが出来た。 雲雀はいつも急に訪れては凡そ柔らかな命令口調でになんらかの要求をするのだった。

あまりにも振り回されるものだからも雲雀の病室に行ったことがあったが、が行くと雲雀はいつも不在でなんとなく悔しい思いをさせられていたのだった。

『毎回毎回そんなによく私に用事があるものね』

呆れたようには肩を竦めた。

昨日はトランプに付き合えとたった二人で七並べをやり、その前は学校の宿題が分からないからと教科書を持って来たのだ。 そう思い返して見ると要求とは言ってもその内容は幼く甘えられているような気さえしてくるのだが、いつも浮かべる何かを含んだ笑顔見ているとそんな態度すら作為的な気がして、気を許してはいるが油断は出来ないとは思っていた。

「君に会いに来たって言えばいいの?」

そんな雲雀の軽口に慣れたのか、は動揺することもなく引き出しから果物ナイフを取り出して器用に林檎を回しながら皮を剥いていく。

にとって雲雀は淡白な印象の少年だった。だからなぜ執着されるのか不思議でならなかった。

「声、出るようになるの?」

唐突に雲雀は尋ねた。いつであっても雲雀は自分のペースを崩さずに自分のしたいように振舞う。 それは一見人を人とも思わない態度ではあるが、雲雀のそんな調子は余計な気を使わないで済むので、には楽だった。

『腫瘍がちゃんと取れていれば』

林檎の皮は剥けた。 剥けた林檎を果物用小さなまな板の上に置いて手拭で手を拭くと、は包丁をペンに握り代える。 これが、声が出ないことの不自由さの最たるものだった。

「声が出ないってどんな感じ?」
『煩わしい』

現に林檎を剥くことと会話をすることを同時には出来ていない。 意思を、意思が生まれた瞬間に伝えられないことはそれだけで苦痛だった。

「それだけ?」

雲雀はが剥いた続きで林檎を切り分けていく。 半分に割り、またそれぞれを半分に切り、種を取り除く。

『怖い』

その間にはたった二文字を小さく書いた。 既に雲雀との会話で文字に埋めつくされている紙のほんの余白に書かれながらも、本音の言葉は浮き立っていた。 その暗い揺らめきは雲雀が初めて見たと同じものだった。

「声が出なくなるかもしれないことが?」
『歌手じゃなくたって、自分の一部が欠けるのは怖いよ』

声に出して簡単に言ったことではなく、紙に書くことで咀嚼された言葉であるにも関わらず、手に取るようにの言いようのない孤独感が伝染する。 奇麗に客観された言葉ですら伝わる彼女の恐れ。

もしこれを声に出して言っていたならば、どれだけの不安が溢れ出たのだろうか。 おもむろに、雲雀はの喉に巻かれた包帯を指先でなぞる。

「君、そういう顔が一番奇麗だ」

 そこに映るものが自分だけになるように、雲雀はの目をじっと見た。 それは湖面の底を覗き込んだときの気持ちに似ている。 そこには何があるのだろうかと探り、想像もつかないものが眠っているに違いないと胸を躍らせたあの感覚と。

「悲愴で、寂しげで、悲しそうなぐらいが奇麗だ」

天国とも地獄ともつかない場所に彼女は一人立っている。

『声が出ない方がいいなんて初めて言われた』
「気を悪くした?」

悪びれることなく、雲雀は彼女の髪先に指を絡めて許しを乞う真似をする。

『声が出なくても、少し安心出来そう』

決して、その彼岸に雲雀を呼ぶことなく笑ってみせるのは強さとも弱さともつかない。 雲雀がそこに行きたがっていることを知っているのだろうか。 そして雲雀自身も、そこが静かな場所だから行きたいのか、彼女がそこにいるから行きたいのか、判然としないままだった。

『でもそうすると、きっと声が出せるようになった私は君の趣味に合わないわね』

笑いながらそれを書いた彼女の様子から、それが冗談の類だということはすぐに分かった。 そしていつもの雲雀なら皮肉に皮肉を重ねて投げ返すところだった。しかし今日は、なぜか頭にきた。端的に言えば、腹が立った。

彼女も雲雀が笑っていないことに気づいたようだった。 いつもなら真意をみせることなく、むしろ隠すことさえ戦略に置き換えてをからかう道具に変えてしまう雲雀が、表情を無くしてを思考の外に置いてしまっている。

『雲雀君?』

唇だけがそう呼んだ。 文字ではなく、彼女自身が雲雀のことを呼ぶ。その瞬間逆流する血液が雲雀の冷静さを塗り潰した。

雲雀の目にの驚いた顔が映る。 雲雀は手のひらには意外にも細い、男とは違う女の手首が掴まれていた。 その細さに驚きながらも、雲雀は薄笑いさえ浮かべてその腕を引き寄せる。

冷えた空気、等間隔で落ちる点滴、石膏のような肌、出来ることは文字を綴ることだけの、管理され秩序が支配する病人の部屋。 無彩色で、酷く透明な空気は何もかも見通すことが出来るが、雲雀が病室を訪ねてもその透明さは少しも損なわれない。何にも染まらない。

それは雲雀が彼女に何の影響も与えていないということで、そのことが更に雲雀の苛立ちに拍車をかける。 心のどこかでその肌は鱗のように冷たいに違いないと思っていた雲雀は、当たり前のように温かく弾力のある腕に動揺し、力がこもる。

そうすると強く脈を打ち返してくる腕は間違いなく生きている人間のもので、自分とはまるで違う柔らかい肩と弱い背中は今にも壊れそうだった。
離した方がいいと幾分取り戻した冷静が囁いた。 けれど雲雀は止めなかった。止めたいと思わなかったし、止められなかった。

「雲雀恭弥だ。その包帯が外れたら君が最初に言うのは、雲雀恭弥だ」

独占欲が強いことは自覚済みだ。 そして無知と幼さはとうに越えてしまっているので、どうすれば逃すことなく欲しいものを手に入れられるかはもう知っていた。 言い聞かせるように、暗示にかけるように、の耳元でそれだけを繰り返す。

しかしそうして支配した気でいても、選択権が自分にないことは初めてだった。 彼女が呼ぶのか、呼ばないのか。 不安など、第三者のせいで与えられる不安など初めてだった。

『名前を尋ねるのって、昔の求愛の仕方らしいよ』

はそれだけを書いてペンを置いた。 意趣返しに、いつも雲雀が浮かべる笑みを湛えて試すように見ている。 彼女の名前を知ったときに、雲雀が何もかも手に入れた気になったのは遥か昔の血の名残だったのかもしれない。

「包帯取れるのは明日?」

は頷く。雲雀はそれに答える代わりに口付ける。 ははにかんだように笑って、食べる?と小首を傾けて雲雀の切り分けた林檎を差し出した。 雲雀は差し出された林檎をかじった。その香りは、初めて会ったときにが纏っていた香りに似ていた。

※雲雀さん入院中のお話。

(2007/7/24)