沈黙の底




お互いに何も言わなかった。何も言えなかった。膝を抱えて、気を抜けばばらばらになってしまいそうな自意識を必死で掻き抱いていた。 世界中の慟哭を流し込んだような一寸先をも閉ざす闇が二人を囲んでいた。



「分かってたことだけどさ、」


ぽつりとが漏らした。黒い黒い闇の中に、一筋のまっすぐな線が引かれる。それは闇を掻き分けて、必死で出口を探す彼女の聡明さの表れだった。
いつでも彼女は果敢で、諦めることを知らない。どれだけ前途が闇に覆われていても、出口は必ずあると信じられる人だった。 そんな慎重で冷静な彼女が声を震わせて、嘆きを外へ漏らさまいと耐える姿は痛ましかった。


「どうして死ななきゃいけなかったのかな」


真新しい棺桶と対面して、真っ白な血の気の失せた顔で翡葉の部屋にやって来たは長い長い沈黙の後でそれだけ言った。
出来るだけ客観的に激情の理由を問うは、強く自分の腕を抱くことで迸る感情を押さえつけている。どうしてそこまで耐えるのだと、翡葉は聞きたかった。


「どうして誰かが死ぬことでしか解決出来ないのかな」


が単純な平和主義者でないことは翡葉は知っている。犠牲が時として―――残酷でも、必要だと知っている。 それはいつ自分の番が回ってきても文句はないという覚悟の表れだ。自分の番が来たら、出来る以上に足掻くのだと彼女はいつでも必死だった。
それだけ現実を直視していても誰かの死の度に痛む心を無視出来ない優しさに、翡葉はいつも眉根を寄せてきた。

「仕方ないなんて言いたくなくて頑張ってるけど、ねえどうしてなんだろうね」


翡葉は拳一つ分の距離を躍らせたまま、何も言えずに唇を噛む。濃厚な闇が徐々にを取り込み始めている。 いつもそれに負けないよう踏ん張っていたを嗤うように、真綿で首を絞めるようにその肌を侵している。
笑いながら我武者羅に頑張るが、翡葉には時々行き急いでいるように見えて何度となく苛立った。その正しさが気に入らなかった。 神様は優しい人から順番に手元に呼ぶのだという教えが、いつの順番を早めるか分からない。


「意味なんてないって分かってるよ。正しくないことだって分かってる。ねえでも、ねえ翡葉君」


ああ、が闇に落ち込んでいくのは今なのだと翡葉は直感した。闇の中でもぎらついているのがはっきりと分かると怒りに塗りつぶされた目が翡葉を睨んでいる。
こんな目を一番軽蔑していたのは彼女だったはずなのに。ともすれば世界を憎みがちだった翡葉を嗜めるのはいつも彼女であったはずなのに。 今までよく保っていたのだと、翡葉は彼女の強さを感嘆と哀れみでもって見た。


「どうしたら私はこの憎しみを軽蔑できるの………!」


は翡葉の胸倉を掴んで、大粒の涙をぼたぼたと落とした。叫び声に近い悲鳴が翡葉を抉る。何度も何度も、は飲み込んできたのだろう。
一つ新しい棺桶が出来る度に。吐きそうになっても無理やり飲み込んで、しっかりと自分の足で立って、亡くなった者のために懸命に「今」に踏みとどまった。


ここは平凡な毎日が身近すぎる。誰かの死を理不尽だと錯覚させるまやかしの優しさが強さを弱くする。覚悟はなくても、現実は皆が知ってるはずなのに。 次死ぬのは自分かもしれないと、誰もが知っているはずなのに。仮初めの優しさに身を委ねることが出来なくなるほどはもう深く沈んでしまっている。 翡葉は堪らなかった。


「だったらそれ以上に愛してやるから、」


翡葉は抱き締める以外のことは出来なかった。憎い憎いと、触れた肌の先からの憎悪が翡葉を侵す。聡明さの反転。我慢の限界。 これまではよく頑張ったと、本当によく耐えたと翡葉は思った。


「それで我慢してくれお願いだから」


腕の中でもがくを無理やり抱き込んだ。でもそれは優しさではなく暴力で、の憎悪をどうにかしてねじ伏せなくてはと翡葉も必死だった。
なぜなら翡葉も、憎しみのやり場など一つしか知らなかったから。許すことなど考えることも出来ない。けれどもうこれ以上仲間を失いたくはなかった。


「愛してるじゃ足りないか?」


搾り出た声が思いの外必死で翡葉は自分の思わぬ弱さが怖くなった。彼女はいつもそんな自分と対峙していたのだろう。
翡葉の背中には深く深く爪が立てられた。甘さの欠片もない痛みは鋭く翡葉の狡猾さを責める。彼女は最後まで何も答えず言葉を殺して泣いた。


溶けない闇。塞がった出口。縋ったのは彼女の聡明さ。告白というよりも脅迫。それでも彼女をその深い底に沈めるわけにはいかなかった。絶対に。



(2007/11/11)