昨日と今日は余りにも違い過ぎて、違い過ぎて



それに気づいた瞬間、世界が鮮やかになった。 世界はこんなにも色に溢れていたのだと、初めて知った。 彼が目の前を横切るだけで、この世界は様相を変える。 心臓の跳ねる音が私を緊張させる。 言葉は少しも形にならない。 目が合うだけで、逃げ出したくなるほど恥ずかしくなる。 私はそんな自分に戸惑い、持て余す。


だって、もうこんな感情殺してしまったと思っていたから。


それのせいで悲しいぐらいに、私の世界は変わってしまった。 私はこのまま変わらずに、流されるがままに生きていきたかった。

何かを欲しがりたくなんてなかった。 手の中は空でよかった。 何も掴みたくなかった。 与えられるのは怖い。欲しがることはもっと怖い。 寒くて寒くて、私は夜も眠れなくなった。 朝が来るたびに、私はこの殺せない気持ちに泣きたくなった。 どうしていらないものばかり、私は手に入れてしまうのだろう。









「翡葉君は、失恋したことある?」

好きと言えない代わりに、私はそう聞いた。彼は落ちていく夕日を眺めたままだ。 今日の夕日は燃えるような壮絶な赤で、感傷的になることを拒んでいた。 少し絶望の色に似ている。 私はその夕日の色に、今しか聞けないと思った。

「俺たちは生まれたときから失恋しているようなもんだろう」

気のない声だった。何を今更と言わんばかりの。表情も何一つ変わらない。 けれど私は、悪態をつかれるか無視されるかのどちらかだと思っていたのでまともな返事が返って来たことに少し驚いた。

「生まれて来たときから、か」
「お前愛されてるなんて思ったことあるのか?」

私がため息をつくと、小馬鹿にしたように彼は言う。 酷い言いようだが、それは彼にもそのような覚えがないからだ。 私たちは同類だ。 人として生まれて来たにも関わらず、あろうことか愛されたことがない。

「じゃあ愛し方を、私たちは知ってると思う?」

愛されたことがなくても。それが本当に、人の本能だと言うならば。

「お前、ちゃんと脳みそに俺の話通してるか?」

ところが彼は呆れたように私を見た。怪訝な顔して、見下げていると言っていい。 馬鹿にしていることがありありと見て取れる。雰囲気を理解しない男だ。さすがに私も腹が立った。

「ちょっと、私真剣に話してるんだけど!」
「だったら尚更だ馬鹿。俺たちは失恋してばかりだって言っただろうが」

すぐに私は彼の言うことが分からなかった。すると、やっぱり馬鹿だと追い討ちをかけられる。 殴ってやろうかと拳を握ったとき、私ははっとした。

「お前、ちゃんと脳みそに栄養送ってるか?」

私が気づいたことに気づいた彼は、にやにやしながら私を見る。腹が立ったので、とりあえず私はその頬を引っ張ってやった。 それは彼独特の励まし方だった。そうだった。こうして私は何度も彼に助けられてきたのだ。

「相変わらず、慰めるのが下手くそね翡葉君」
「おめでたい頭してるなお前」

誰が慰めてるんだと嘯いて可愛げがないことこの上ないが、ふいっと顔を逸らしたのは彼が照れている証拠だ。 私は堪えられず笑ってしまった。

何ということだろう。失恋するということは、何かを愛した結果のことだ。 自分の矛盾におかしくなる。 最初から私は、愛することを前提で話していたのだ。

それを分かった上で、彼はあっさりと言ってのけた。 それこそ、気のない声で。何を今更と言わんばかりに。 表情も変えず事も無げに彼は、私の不安を突き崩した。

(ああ、この人は知っている)

私は眩暈のする思いで彼を見た。この人はちゃんと「人」として生きている。 愛されなくても、愛するものに出会えば愛せることをちゃんと知っている。

「じゃあ翡葉君が誰かを好きになったら教えてよ。ちゃんと誰かを愛せるんだって、証明して見せてね」

私は目の端を拭って、後ろに手をついて夕日を眺めた。そうでもしないと余計なものが落ちてしまいそうで、私は殊更に笑った。

「自分でどうにかしろ。人任せにするな。そんなこと俺の知ったことじゃない」

優しくしておいて、やっぱり冷たいことを言う。たまにはこの憎たらしい口を黙らせてみたいものだ。 縁側で足をぶらつかせてながら私は最高の仕返し方法が閃いた。 急に静かになった私を、彼は怪訝な顔で覗き込む。無防備な顔をされると、覚悟などしなくても言葉は自然に滑り出る。

「ねえ、私は翡葉君を好きだって言ったらどうする?」

彼の目に映る私は可哀相なぐらい真剣な顔をしていた。

………?」
「冗談じゃないよ」

私はきっぱりと言った。すると彼も難しい顔になった。 何かを欲しがりたくなんてなかった。 手の中は空でよかった。 何も掴みたくなかった。 与えられるのは怖い。欲しがることはもっと怖い。

そんな私に希望を与えたのはあなただ。

世界が真っ暗になるぐらい、あなたが好きだ。

あなたのお蔭で、私は違いすぎる昨日と今日を越えられた。

だから。だからどうか。

「あなたに、私でも人を愛せることを見届けて欲しい」

沈黙が降りて、夕日は落ちて、私は乞うように彼の肩に額を寄せた。 彼の心臓は、涼しげな表情とは裏腹に早鐘を打っていた。

夢姫様(2007/10/25)