ステーションに到着したときから、シロエは他の子供たちと雰囲気が異なっていた。 他の子供たちは皆どこか不安に怯えたような、けれど内に満ちる期待を隠し切れないずにそわそわとしていたがシロエは―――この時点で私は彼の名前は知らなかったけれど、 固く唇を結んで今から降り立つステーションを不機嫌に睨みつけていた。そう、ありていうならば怒っているような、そんな表情を浮かべて彼はタラップを降りる順番を待っていた。 ■□■ 「君、エネルゲイアの出身だって聞いたんだけど、本当?」 初めて彼に声を掛けられたとき私は心底驚いた。声を掛けてきた少年が、トップエリートをひた走るセキ・レイ・シロエだったからだ。 7月生の中でもとびきり優秀なシロエは、中間層でそこそこにやっていた私には縁遠い存在だった。 私は学年内で目立つシロエの噂話をいくつか聞いていたので、彼が私と同郷のエネルゲイアの出身だと知っていたけれど、 特にこれといって目立つことのない私がエネルゲイアの出身だと彼が知らずにいたのは無理のない話だ。 「そう、だけど………」 恐る恐る、私はあまりの驚きにとりあえず問われたことにだけ頷いて答えると、少し固い顔をして私に対峙していたシロエは初めて表情を綻ばせた。 「セキ・レイ・シロエだ。同郷同士、仲良くしてくれ」 名前なんてとっくに知っているけどと心中ではにかみながら、私は差し出された手を握り返した。 これが私と彼が初めて言葉を交わしたとき。幼さを残す横顔は自信に満ちていて、目が離せない魅力が溢れていた。それはまるで、見たことのない太陽のようだった。 ■□■ 「私がエネルゲイアの出身じゃなかったら、シロエ君私と仲良くなんてしてくれなかったでしょう?」 昼食を向かい合って摂りながら、私は少し意地悪く言った。シロエと仲良くなることにさほど時間はかからなかった。 彼が何かと私に構いたがったからだ。友人たちは揃って冷やかしてくれたが、実際のところ私たちが話しているのは故郷の話ばかりだ。 彼はエネルゲイアのことを話したがり、聞きたがった。 あまりにも故郷のことばかり聞くシロエに、私はほんの少し苛立っていた。 その上彼の眼中にあるのが上級学年にいる一人の先輩のことだけでは、面白くないことこの上ない。 ほんの少しばつの悪い思いでもしてくれれば私は十分だったのだが、そこはかのセキ・レイ・シロエのことで、しれっとしたものだった。 「君と話してみたいと思ったのは君がエネルゲイアの出身だからだけど、君が詰まらない人間だったら僕は付き合っていないよ」 やはり彼に勝とうというのが間違いだったと思い知った瞬間だった。こう言われて私は喜べばいいのか怒ればいいのか分からなかったが、ともかくシロエらしい発言なのは確かで、まあいいかと私は苦笑いで答えておいた。 普通友人の条件というと、優しい子だからとか、信頼できるからとか、心を打ち明けられるからとか、気が合うからなど、いかに気の許せる相手かということが挙げられるだろう。 後から気づいたことだけれどシロエにとっての友人の条件は、普通のこうした理由と同じくらい「エネルゲイアの出身である」ということは重要だったのだ。 些細な事実の共通。けれどそれが彼にとっては何にも代えがたい大切なことだったということを、このときの私はまだ気づいていなかった。 ■□■ 「ねえ、もういい加減やめようよ」 何度目だろうか。この台詞をシロエに言うのは。不自然な汗をかいて、表情を歪ませて、それでも頑として首を縦に振らない彼に私は肝を潰す。 涙声になって訴えても、シロエは頑なにマザーへの反抗の態度を改めようとはしなかった。 「僕の尊厳は、誰にも侵させないよ」 声だけが固く、シロエは力なくベッドに崩れ落ちた。私の支えなしには彼は立っていられなかったからだ。 マザーにコールされた後の彼を、彼の部屋まで運ぶのは私の日課となりつつあった。 最初の頃の穏やかな呼び出しから、ここ最近のシロエへのコールは頻度だけでなく内容も激しいものになっているようだった。 シロエはコールがある度に、何分後、この場所で待ってるようにと私に言い残してマザーの元に赴く。立てなくなるまで衰弱する自分を運ばせるためであり、 「ねえ、そんなことよりまた話してよ」 いち早く、私にエネルゲイアの話をさせるためだ。乾いた声で、だらりとした四肢を投げ出して、この日もシロエは私にねだった。 マザーにコールされる度に、彼はエネルゲイアの話を聞きたがった。 学校のこと、仲の良かった友達のこと、母さんのこと。 幼い世界はあまりに狭く、ただでさえ薄れかかった記憶の話だ。私に出来る話はそう多くなく、必然的に何度も同じ話を繰り返すことになったが彼は満足そうに聞いていた。 それはもしかしたら私が同じ話を繰り返すことに、彼は安堵していたのかもしれない。私は忘れていない、と。彼は忘れることを極度に怖がっていた。 「同じ話ばかりで飽きないのシロエ君」 わざと私は「同じ」というところに力を入れた。揶揄を装って、彼に安心を与えるために。 昔話をすることに絶えず緊張感が孕むようになってから、私は昔話の要求しかしないシロエが歯痒かった。それ以上の助けを、彼は決して求めない。 「私ね、ステーションに着いたときのシロエ君覚えてるよ」 私は必死だった。私たちは、共に過ごしてもいない過去の話ばかりしている。でも私はもっと違う話をするべきではないだろうかと思っていた。 「ねえ、シロエ君はそのときのこと覚えている?」 ステーションに着いたばかりの頃は間違いなく過去だ。でも、未来に繋がる過去だ。エネルゲイアの思い出話とは違う。 私は彼と、未来の話がしたかった。メンバーズに選ばれるシロエ。もしかしたら、一緒に選ばれているかもしれない私。 シロエには君はコモンだろうと、馬鹿にして笑って欲しい。コモンだって楽しい生活があるのよと言い返してやりたい。 未来を話したい。彼が溌溂といつもの皮肉な表情を浮かべながら生きている未来が、私は見たい。 今、暗い底で出口を探すシロエの帰る場所が過去ではなく未来であるようにと私はシーツの端を強く握った。 「みんな不安でおどおどしているのにね、一人だけ堂々としている子がいてね、すごいなあと思ってんだよ」 誰よりも輝いていたシロエ。ステーション到着時点で既に皆から頭一つ分飛びぬけていた。 幼さが聡明さを際立たせ、意思の固い目が油断なく前を見据えていた。 「だからね、まさかシロエ君と友達になれたときは本当にびっくりしたんだよ」 何を見ていたんだろうか、あのときのシロエは。もう早、自分に何が起こるのか覚悟していたのだろうか。 「それにね、私もエネルゲイアから来たけどあんなロボットなんて作れな――」 「。エネルゲイアに帰りたいな」 シロエは私の話を遮り、あまりにもらしくない一言を漏らす。私の話など聞いていなくとも、彼はたった一つの単語にだけは反応が示せる。 それがすべての答えで、私は俯くことしか出来なかった。 シロエとエネルゲイアの話をし始めた頃は、私はもっと沢山のことを覚えていた。 空気の匂い、お気に入りの洋服、母さんの焦がしたオムレツの味、好きだった男の子の優しい声。 でも、この頃は私自身ももう曖昧なことしか覚えていなかった。確かな記憶で話せることなどもう僅かしかなかった。 けれどあまりにも必死にシロエが話をせがむものだから、私は記憶がなくなっていることを言うことはできなかった。 彼に話した後は、忘れないうちに話した内容をノーートに書きとることが私の習慣になった。そのノートを読み返してみても、それがかつての私の毎日だったと実感出来ることも少なくなっていった。 沢山の本を読んで、もっともらしく故郷の話を出来るようにと幼稚な小細工だってした。 憔悴していく身体とは反比例しながら、危うげな果敢さを見せるシロエを繋ぎとめる方法を私は他に知らなかった。 恐らく沢山の間違いを、私は彼に話しただろう。最初の頃の彼ならば、そんなはずはないと笑いながら訂正しただろうに今の彼はそんな私の嘘の話にすら必死で縋りつく。 こんな子供騙しの御伽噺が通用するのも、彼が私と同じぐらい―――いや、私以上に記憶が消されているからに違いない。 私は彼ほど、昔のことに固執していなかった。マザーが記憶を消すことが正しいというならば、それが正しいのだろうと思ってきた。 私が記憶にしがみ付いたのは、彼がもっと話が聞きたいとせがむからだ。 そんな日々を過ごすことを当たり前としたから、私は吸い込まれるように彼以外が徐々に見えなくなっていった。 この頃から私の世界は、急速に彼を中心に回り始めた。 ■□■ シロエが死んだ。 それは心のどこかで予期していたことだった。 「私だってエネルゲイアの出身よ」 私の独り言と同時に、ロックは解除された。シロエの死後、閉鎖された彼のコンパートメントに忍び込んで、彼の痕跡は欠片も残されていないことを私は確認した。 もしここに彼がいたら手際が悪いのだなんだのとやかましく言っているはずだが、ロックを外すぐらいのことは私でも造作はない。 「話ばかっかりしないで、こうやって一緒に何か作るのも楽しかったかもね」 私は主のいないベッドに座った。部屋の中は真っ暗で、無音で、虚しい。 「最後まで、君は自分以外に頼らなかったのね」 返ってくる言葉は当然のようになく、私の呟きは闇に吸い込まれる。意外なほど、私はシロエの死を聞いても動揺しなかった。 休まず講義に出席し、友達と他愛ない話をして、皆からシロエの記憶がなくなりつつあることを知る日々。 あんなにも必死だった毎日が嘘のようだった。 「あんなにもシロエ君派手だったのにね、もうみんな忘れ始めてるんだよ」 私は苦笑いを浮かべながら、足をぶらつかせた。私も近々忘れるだろう。 「私はまだ大丈夫だけど、多分そろそろ無理な気がするんだ」 真新しいシーツに皺が寄る。薄いシーツぐらいでは、爪が手のひらを抉る。痛い。手のひらだけでなく心も痛い。 無感動に徹してきた自分の心を、私はちゃんと知っている。平気なのはただ単に不感症を装っているだけだ。 シロエが死んで、どうにかならないはずがない。そんな重すぎる思いを今の私では支えきれない。知らない振りをするしかないではないか。 「ねえ、どうして君が死んだことを悲しむ時間も、悔しがる時間も、怒る時間も、期限付きなのかな?」 私は近々彼が死んだことも、彼が死んだことで潰れそうな痛みも、忘れてしまうのだろう。見ない振りを続けていればこのまま忘れてしまう。 悲しむのは今しかない。泣くのは今しかない。今しか彼のために泣けるチャンスはないのに、どうしても涙は落ちてこなかった。 「どうして、こんなに大事なものを奪われなきゃいけないのかな」 それはとても皮肉なことに、彼が死んで初めて彼がなぜ記憶を守りたがっていたのかを私は知った。 「こんなにもこんなにも、痛いのね。忘れたくないってこういうことだったのね。ごめんね。何にも分かっていなくて」 主のいない部屋で、私は謝った。天井を仰いで、そこにまるで彼がいるかのよう整わない息を吐き出した。 「ごめんね。私、きっとあなたのこと忘れてしまうわ」 ずっとずっと彼しか見ていなかったのに。とにかく私のことを見て欲しかったのに。 馬鹿な女としてでもよかったから、とにかく私を見て欲しかった。私はずっとずっと、彼に憧れていたから。 「私は少しでも、あなたの助けになっていたかなあ」 私たちは最後までずれていたけれど、きっと欲しがったものは同じものだったはずだ。 彼を中心に回っていた私の世界。その軸を失ったこの世界はどうなるのだろうか。 「ああそうか」 私は声に出さず呟いた。だから、マザーは記憶を消せと言うのだ。 「ごめんね。私、あなたのこと忘れてしまうわ」 私は二人の人間に向けて謝った。まずは今はもういないシロエに。彼が私に覚えていて欲しがるかはわからないけれど、とにかく謝った。 そしてもう一人、今確かに彼に恋をしていた自分に。 私は、彼に恋していた自分も忘れるのだ。未来を生きる自分に代わって、今の自分に謝った。 シロエの死が悲しくて、こんなにも好きだった人を忘れてしまう自分が哀れで、ようやく。私は涙の落ちる音を聞いた。
(2007/11/18) |